渇望

憧憬 の続きです。
 
 
もう耳慣れてしまった留守番電話の応答メッセージを途中で切り、レオンは無意識に舌打ちしていた。
この調子では、何度目か前に残した留守録も、本人にはまだ届いていないだろう。
そもそも、いつでもすんなりと連絡を取り合える相手ではない。それは向こうからこちらへコンタクトをとる場合でも同じことで、レオンとて何日も返事ができないことはあった。
それでも互いに、状況すべては明かせなくとも、連絡がとれない状態である旨だけは何らかの形で解るようにはしていた。
そして、これほどまでに長い間、何の反応も返ってこない事は今までもそうそう無かったのだ。
本人に繋がらずとも、レオンには調べる方法が全く無いわけではない。私情で使うには少々…問題のある情報網ではあるのだが、今までも少し拝借したことがある。
だが、今回はそれに手を出す前に、彼につながりのある人物に合うことが出来た。かつて、件の情報網を活用して手助けしたことのある相手だ。
テラセイブ。保護したテロ被災者の身柄を委ねる手続きのために訪れた先で彼女は、記憶よりずいぶん短くなった髪を揺らして、記憶に違わぬ快活な笑顔で再会を喜んだ。
久しぶりに対面した彼女ーークレアは、挨拶がわりに見慣れない髪型を褒めるレオンを、相変わらずね、と一笑した。
「クリス?何か問題でもあったの?」
彼女にも、特に知らせはないらしい。そもそも、このたった1人の妹に対してその兄、クリスは、過保護が行き過ぎてとにかく心配をかけさせまいと、めったに自分から状況を知らせたりはしないのだ。
(だが彼女にそれは逆効果でしかないのではとレオンは思っている)
「いや、どうしてるのかと思っただけだよ」
「そう…あの人、私の言う事なんて全然聞かないんだから。この間も、怪我したって言うのに私には一言もなくって、部下の子が気を利かせて知らせてくれたのよ」
「怪我…?最近か?」
それは自分も聞いていない。まあ、クリスのことだから、自分からは言わないだろうが。
「ええ、少し前だけど…大した事ないって。ただ内部でごたごたしてるから、しばらく連絡とれないかもしれないけど、心配いらないってピアーズ君…クリスの部隊の子が」
よくクリスのサポートしてくれてるみたいで、正直私も、彼が見ててくれるから少しは安心だわ。
どうやらクレアも面識のある相手らしい。信頼を置いている人物のようだが、それでも「せめてその事を、自分で伝えてくれればね…」と、やはり、兄を案じていることには変わりないだろう。少し、寂しそうに笑っていた。
 
クレアの言うそのクリスの部下は、このところ一番組む事の多い同僚で、既に彼の右腕のような存在だという。
彼との会話の中で、その名前が出たことはあっただろうか。あったような気もする。よく覚えていない。
クリスとの逢瀬は刹那的で、雑談の内容よりもその時その声を、表情を、触れた感触や匂いを、次にいつ会えるかも分からないその存在を、とにかく感じ、記憶しておく為に、必死で貪るばかりだった。
他人は決して知ることのない彼を自分は知っている。自分だけが。そう自負していたレオンは、けれども彼が普段、自分のいない大多数の時間をどんな人間とどうコミュニケーションをとって過ごしているかなんて、ほとんど何もしらないことに、今になって気づいたのだった。
それはもう、どうしようもないことだが、今さら妙な焦りがレオンを突き動かす。
心配なさそうだとクレアは言ったが結局、ただただ会って確かめたい気持ちが増すばかりだ。
 
 
 
そうして、会える保証もないままに、クリスの自宅へと足を向けるのを止められなかったレオンは、そこに着くまでの道すがらも連絡を取ろうと試みていたが、やはり無機質な応答メッセージが流れるだけで、きっと己からの着信ばかりで埋まっているであろう相手の着信履歴と、それを見て困惑するクリスの表情が、ありありと思い浮かんだ。
(我ながら、ちょっと病的かもな)
やっとここまで関係を築いたのだから、今さら警戒されることは避けたい。
これでもかなり周到に、あの自分の役目一辺倒な朴念仁を懐柔したのだ。
その結果である、部屋の合鍵をポケットの中で弄びながら、もう片方の手で玄関のベルを鳴らす。
わかってはいたが、やはり反応が無いことを確かめてから、鍵穴にキーを刺し込んだ時だった。
「おい!何してる!」
突然言葉尻荒く怒鳴りつけられて、反射的に声のほうに振り返ったレオンの視線の先に、ミリタリージャケットを着た短髪の、日用品の買い出しらしき袋を抱えた青年が、警戒心むき出しで立っている。
そして続けて何か言い募ろうとした口は、何故かレオンの顔を見た途端、驚いたように固まった。
同じ建物の住人だろうか。それにしても、ただの近所付き合いで、いきなりこの突っかかり様は無いだろう。
「あー…すまない。ここの住人と知り合いか?」
「あ、ああ…。…あんたは」
「勘違いしないでくれ。この鍵は、本人から預かったものだ。なんならクリスに直接聞いてくれていい。すぐ解る」
「……」
青年は思案する様子で少し目を泳がせると、一歩レオンに近づき見える位置にバッジを掲げた。レオンも良く知っている、BSAAの紋章とSOUのロゴ。
「失礼しました。レッドフィールド隊長なら留守です。申し訳ないですが、お引き取り下さい」
「君は?いないのを知っているなら何故訪ねてきたんだ」
「…公務です。これ以上は話せません。Mr.ケネディ」
自分の顔と名前が知られていることに少しばかり驚いたが、こちらの身元が判っていてなお、口調は慇懃なものの警戒心はそのままに、名前すら名乗らなず言い放たれた言葉にはまだ敵対心が感じられた。
取り付く島もない青年の態度に、少しの間を開けた後、レオンは肩をすくめて了承の意を示し、クリスによろしく、と素直にその場をあとにした。
その姿が死角に入るまで、背中に鋭い視線を感じながら。
 
 
「…」
レオンが階段を降りていく音を確認して、ピアーズは部屋の鍵を開けた。照明を絞ったリビングからわずかにテレビの音が漏れ聞こえている。
「戻りました」
一声かけてリビングのソファの後ろを横切り、キッチンに荷物を置く。取り出したものを仕分けしていると後ろから、先程までソファに座っていた大きな影が、のそりと背後に近づく気配がする。
「腹へってるでしょう?それともどこか出掛けましたか?」
背を向けたままピアーズが話しかけると、いや、と一言、静かに返事があった。
「…さっき、呼び鈴鳴らしたか」
「ああ、それ俺です。鍵持ってるの忘れちゃってて」
すいません、びっくりしましたよね、と振り向けば、別に、とまた一言だけ、返事を残してリビングへと戻っていく。
「すぐですから、もう少し待って下さいね」
朗らかにかけられる言葉にもう返事はなかったが、ピアーズは満足そうに微笑んでいる。
キッチンでピアーズが、少々がさつな物音をたてながら鼻歌交じりに食事の支度をしているのを聞くともなしに聞きながら、クリスは無機質な表情でテレビを眺めている。
今は落ち着いているが、ここに至るまでのクリスの荒れ様は酷かった。
記憶をなくすに至った原因に直前の悲惨な状況が関わっているのは明らかだった為、混乱を招かないよう具体的なことは伏せつつ、一番最初にピアーズがクリスの様子を見ながら根気よく噛んで含めて説明したお陰で、多少の懐疑心は残っているものの、だいたいの自分の状況は理解したようだった。
そして身体の不調が回復し退院を言い渡された後も、今の精神状態ではもし真実を思い出した時にどんな行動に出るか分からないと懸念され、しばらくは現場から離されることになった。
関係者の大半が本当に彼のことを案じていたが、皮肉にも腫れ物に触るような扱いになってしまったせいか、気遣われる言葉にも耳をかさず人を遠ざけ、ふらりと姿を消しては独りひどい飲み方をして、暴力沙汰になりかけたりもした。
ピアーズはそんなクリスをただ、何も言わずに見守っていた。
要らないと言われても彼の世話をやき、姿を消せば足で探して、泥酔する彼を連れ帰った。口は出さず、ただ彼のために行動してみせた。
そうやって、自分の一回り以上も下の若者が、真夜中に駆けずり回り文句も言わず、理由も尋ねず己の後始末をする様を目の当たりにしては、記憶がないとはいえ、いつまでも傍若無人に振る舞っていられるクリスではなかった。
いつの間にか、ピアーズの言うことは、素直に聞くようになっている。
ピアーズは隊長不在の中、隊務をこなしながらクリスの部屋で生活を共にしていた。クリスの様子を報告するのも義務で、そろそろ復帰させて、記憶を取り戻す足がかりにしてはとの声もある中、まだ大事を取ったほうがいいと、この生活に留めている。
今のところクリスに言うことを聞かせられるのがこのピアーズのみなため、その判断が優先されていた。
クリスの部屋にほとんど住み込むようになり、寝室の、持ち主の体の大きさを差し引いても広いベッドに、当たり前のように同衾してくるピアーズにクリスは最初ぎょっとしていたが、当然のことだと言わんばかりの涼しい顔を前に、なにか言いたそうな目で睨むだけで終わった。
正直なところ、ピアーズはこの生活を気に入っていた。ただ、元のクリスに戻ってほしいという気持ちも嘘ではない。
死んでしまった仲間たちの事を思えば、いつまでも己だけが些細な幸福に浸っていられるはずがない。
自分も、現実逃避しているのかもしれない。
背を向けて横たわったクリスの、きっと眉間にシワを寄せて無理やり眠ろうとしているであろう、その背中をじっと眺めながら、もう幾晩も、自問自答を繰り返している。
ベッドが広い理由。二人分揃った食器。想像したくもなかったが、よりにも寄って合鍵を持った男とドアの前で鉢合わせて、いやでも思い出してしまう。
いつか街で見かけたそのブロンドの男の正体は、案外すぐに判明した。データベースで見た写真より幾ばくか年嵩を重ねた、D.S.Oのエージェント。
ラクーンシティの因縁に取り憑かれた、同志というところか。
ピアーズはクリスの過去を、俯瞰的な表現で書かれた資料の文章と、漏れ聞こえてくる伝聞でしか知らない。その行間に、一体どれだけの悲哀と覚悟があったのか。今の彼を見て憶測はできるが、所詮自分の想像でしかない。
そうして限界まで張り詰めた糸が切れたかのように、この人は悲しみを手放すようにすべてを忘れてしまった。
仲間には、部下には見せることのない弱みを、あの男にはさらけ出したこともあったのだろうか…
そんな物思いからふと気づくと、背を向けていたはずのクリスが静かにこちらを見ていた。
「眠れませんか?」ーーそう、声をかけるつもりだった。
暗闇の中、窓から差し込む外灯の僅かな光を、水のように反射する深い色の瞳を見ているうちに、思わず手が伸びた。
そうして、何も言わずゆっくりと閉じられる瞳に誘われるように、唇を合わせていた。
「お前は」
唇の間から低く掠れた声がする。
「お前は、俺の“家族”だと、言った。…のは、こういう事なのか?」
戸惑うことも、嫌悪感も示すこともなくクリスが静かに問う。
「そう、だとしたら、どうします」
「…そうだったら、納得する」
今までの、ピアーズの己への献身としか言えない行動も、そういう関係だったのかと思えば、納得できる。
ああ。
立場と、しがらみと、思い込みと、そういった色々な雑音がすべてなくなると、こうも簡単に伝わるのか。
「何を笑ってる」
ちがうのか、違うなら、お前はただの変な奴だ。と、クリスはバツが悪そうに、微笑むピアーズから視線を反らし、また背を向けた。
「いいえ」
いいえ、クリス。何も違わない。俺は、自分の浅ましさに笑っているんです。
墓場まで持って行く筈だった。伝わらなくとも、自分だけが納得していればいいと、そう思おうとしていた。
本当は、わかってほしかったのだ。知っていて欲しかった。こんなにも。あなたが愛しくて堪らない。
 
 
 
カフェのオープンテラスで、レオンは道行く人の波をサングラス越しに眺めている。店の前の道を数ブロック行くとクリスのアパートメントに面していて、何度か待ち合わせに使ったこともある店だ。
何杯目かのコーヒーを空にしたところで、目の前の信号で止まっている、一台のバイクに注視した。
その、見覚えのあるミリタリージャケットの後ろ姿が、青になった信号を超えて遠くへ消えて行くのを確認してから、レオンは伝票を持って立ち上がった。
 
昨日と同じドアの前に立ってレオンは、もう呼び鈴を鳴らすことはせず、そのまま合鍵を鍵穴に入れて回す。当たり前だがそれですんなりとドアは開いた。
そっと勝手知ったる部屋に入り込む。中は記憶にあるものとさほど変わってはいない。ただ以前はいかにも寝るためだけに帰ってるといった様子の無機質さだったのが、やや乱雑に物が増え、どことなく生活感が出来ている。
その変化がレオンをわずかに苛立たせた。
寝室のドアを開けるとすぐ目に入るベッドは人の形に膨らんでいる。レオンは無言のまま、そっと近寄った。
数ヶ月ぶりに見た、クリスの寝顔。
ようやく会えた実感に、レオンの表情がふと和らいだ。
そっと手の甲で頰に触れると、むずがるように閉じられた瞼が震えた。
「おはよう、クリス」
「あ…?レオ…」
クリスは、薄く開いた瞳でレオンの顔をぼんやりと見た、かと思えば、その一瞬後には飛び起きて、ベッドの端ギリギリまで後ずさった。
「……だれだ」
「クリス?どうした?」
レオンは、もう一度手を伸ばしたが、クリスは益々距離を取るように縮こまり、困惑した表情でレオンを睨み付けている。
「…どうやってここに入った」
「何を言ってる?」さっきは確かに、自分を認識していたではないか。
しかし彼は冗談でこんな態度をとるような性格ではない。訳がわからないながらも、それだけは確かだ。
「…ほら、この鍵、お前が俺にくれただろう?忘れたのか?」
「俺、が…」
そこで、クリスは黙ってしまった。
レオンは、小さく深呼吸し、クリスが蹲っているベッドの反対側に静かに腰を下ろした。わずかに伝わる振動にクリスがピクリと戦慄く気配がする。やはり何かがおかしい。
「心配したんだ、クリス。何ヶ月もお前と連絡が取れない。クレアには怪我をしていたと聞いた。俺は何も知らなくて…いや、別に責めにきたわけじゃない。何か事情があるんだろう?ただ、お前に会って、無事を確かめたかったんだ。解るだろ?」
レオンの切なげな声色を聞いてクリスは、それでも黙ったまま、何かに助けを求めるように目を泳がせた。
「…ここに居るのは俺とお前だけだ」
その様子を見たレオンが低い声でそう言うと、はっとしたようにレオンのほうに視線が向けられ、ようやく目があった。
「クリス、何があった」
さっきからのクリスの態度は、まったく彼らしくない。
おどおどと戸惑いながらも威嚇しようとする様は、まるで迷子の野良犬のようだ。
「まさか、本当にわからないのか?」
まさかそんなことが、と、驚く気持ちもさることながらそれと同時に、不安定なその様子に庇護欲か、それとも征服欲か、なんともいえない感情が湧き上がるのを感じながら、レオンはベッドを軋ませながら身を乗り出し、また少しクリスに近づいた。
クリスが、おずおずと頷く。
なんてことだ…。
けれども、それでクリスの態度には納得がいく。怪我を負った後、連絡がとれなかったのも。
昨日会った男は、お目付け役か。おそらくあれがクレアの言っていたクリスの部下だろう。唯一の家族にまで隠していたのはHQの支持だろうか。それとも…
「あのな、俺は本当に、何か企みがあってきたわけじゃない。お前達の…BSAAの人間じゃあないが、敵じゃない」
ともかく、今は自分が不審者ではないと、クリスの警戒を解くため、問いただしたくなる気持ちを抑え、レオンはそっと、けれども少しずつクリスとの距離を詰める。
「恋人と連絡が取れなくなって、心配で会いに来た。それだけだ」
にっこりと笑いかけると、わずかにクリスの頬に朱が走った。記憶がない不安と警戒心で苛立ってはいるが、やはり根本は変わっていないのが見て取れて、非常事態にもかかわらず、レオンにはそれが可笑しく、愛しさが募る。
「お前が、俺の…?」
「そうだよ。だからお前の鍵も持ってる」
お前が俺にくれたものだよ。
「あとは…そうだな、お前とやりとりした履歴がある」ほら、とレオンはベッドの上にモバイルを投げた。
クリスはおずおずとそれを拾い、名前は、と聞いてきたので、フルネームで答えてやる。
しばらく画面をスワイプしていたが、どんな文面を見つけたのか、なんだか複雑な表情で「もういい」とレオンの方へ投げ返した。
「もういいのか?」
「いい。…お前の言いたいことは、解った、と思う」
なんだか納得がいかなそうにもごもごと口ごもるクリスにやはり可笑しさを感じながら、ふと、レオンは気になった。
「…そういえば、お前のケータイは?」
「…?」クリスは訝しげに首を傾げただけだった。
何度も鳴らした。留守電も入れて。番号は生きていた。
記憶が無いから、またそのことを公にしたくないために、迂闊にプライベートな連絡を取れないのはわかる。しかし自宅にいて本人がその存在も知らないということは、別の何者かがそれを管理しているということではないだろうか。
「クリス、お前の部下はなんて言ってお前をここに閉じ込めてる?」
思ったまま口に出したレオンに、クリスは少しむっとした顔で「別に、俺は閉じ込められてない」と言い返してくる。
「そうか?本当に?記憶を失ってからどれぐらいたってる?」
まだまだ彼らにはクリスの力が必要なはずだ。身体が治ったなら、今度は記憶の回復に尽力する方向に行くのでは無いだろうか?
レオンの頭の中では、だんだんと面白くない推測が広がっている。
「…」
クリスは、口ごもった。何か、心当たりがあるのか。答えを探して、少し焦っているようだった。
最初の威嚇するような態度とは裏腹に、今のクリスは戸惑い、無防備だ。
なにかいけないことを吹き込んでやりたくなるような、ある種の嗜虐心を煽られる。
きっとこれが自分でなくとも、一度警戒心を解いてしまえば、付け入るのはたやすかっただろう。
「さっき、俺の名前を呼んだな」
「…覚えてない」
「かまわない。ちょっと忘れているだけだ。…お前は、思い出せる」
目覚めた時、確かにクリスはレオンの名を呼んだ。物理的な損傷で完全に記憶が無くなってしまっているわけではない。
原因の本質は別にある。
 
 
 
クリスが物思いから我に帰った時にはもう、レオンと名乗った男は、すぐ側まで近づいてきていた。
クリスは混乱していて、思いがけない近さに驚いた時にはもう、容易く引き寄せられたかと思うと、マットに背が沈んでいた。
「…思い出したくないのか」
何が気に障ったのか判らないがレオンが低い声で言う。
自分はてっきり、記憶を失うまえからピアーズと親密な関係にあったのだと思っていた。けれどもこの男は、自分たちが恋人同士だったと言う。
ピアーズは、自分に記憶を取り戻させるために、生活を共にしているのだと思っていた。
無理に追及しないのは、それが彼なりの思いやりなのだろうと。
それは思い違いだったのだろうか。
思い出したいのか、忘れていたいのか。それすら今のクリスは答えられない。
思い出そうとすれば不快な感情がそれを見たくないと蓋をしようとし、しかし何もしていないと不自然な焦りと罪悪感のようなものが後から後から沸き起こってくる、そういう重苦しい感情がいつもクリスを苛んでいる。もうずっと、目覚めた時からそれは変わらない。
自分は何なのか。
何に苦しんでいるのかさえ解らない。
毎日側にいるピアーズは、何も言わない。
この男なら、教えてくれるだろうか。
…楽にしてくれるのだろうか。
応えないクリスを待ち切れないように、レオンとの距離は近くなる。完全に覆いかぶさった体制になっても抵抗しないクリスの耳に「いいのか」と、吐息と共に吹き込んだ。びくりとクリスの体が震える。その声に身を委ねてしまうと、もうどうでもいいような気になった。
先程までのとまどいとはうって変わってクリスは茫然と自分にされている事を受け入れていた。
不快感は無く、それどころか肌を這う手の、舌の感覚には覚えがあった。
駄目だ
「…やめろ」
知っている。この感覚を。溺れてしまえば、楽になれることを、クリスは知っていた。
チクリと、こめかみに痛みが走る。
「駄目だ」
フラッシュバックするようにビジョンが浮かぶ。目を見開いても、頭に流れ込むそれは振り払えない。
獣のようなうめき声、響き渡る銃声、頭が痛い…
自分を呼ぶ声、すがるように伸ばされる腕、絶望を悟った目
「やめてくれ!」
押し寄せてくる感情の波に耐え切れずクリスはレオンを突き飛ばした。割れるような頭痛に堪らず頭を抱え込みその場に蹲るしかなかった。まだ、自分を呼ぶ声がする。
そうして自分自身を抱え込んで、しばらくすると徐々に痛みは引いていく。荒れた呼吸が落ち着き始めた頃、自分がしっかりと抱きとめられていることにようやく気づいた。
さっきから自分の名を呼んでいるのは、クリスを落ち着かせようと肩や背を撫でている、レオンの声だ。
「クリス…大丈夫。俺がいる…何も、悪いことは起こらない」
低く落ち着いた声色に、先ほどまでの艶めいた色はない。クリスの呼吸が落ち着くのを待って、わずかに汗に濡れた短い髪を二、三度撫でると、そっと頬を両の手のひらで包み、ゆっくりと視線を合わせてきた。
「お前が何を覚えていて、何を忘れていても俺には関係ない。お前が全て忘れて、もう、何もかも終わりにしたいのなら、俺がここから連れ出してやる。それを止める権利は誰にもない。お前が責められる理由なんて、何もないんだ。誰にも…」
レオンの言葉は真摯だったが、クリスの頭には靄がかかっているようで、言葉の意味は拾えなかった。ただ、レオンは何かに怒っているのだとぼんやりと感じた。
「…けれど、それじゃきっと、お前は、自分を責め続けるだけだろうな」
まるで痛々しい傷跡に触れるように、レオンはクリスの頬を撫でた。怒っているのかと思ったが、泣いているようにも見えた。病室で目覚めた時、ピアーズが己に向けた震えるような眼差しを思い出した。
「クリス…」
尚も何か言おうとするレオンだったが、突然、静かな空気を割るように響いた電子音にそれは遮られる。レオンはあからさまに顔を顰めて舌打ちし、クリスに見せたのとは別の、薄い端末をポケットから取り出し、ため息をついた。「仕事だ」
レオンはチラとクリスを伺い、なにか思案している様子で黙り込んだ。しばらくして周りを見渡すと、昨日ピアーズが置いたままにしてあったテーブルの上の空の紙袋に何か書きつけてそれを指し、俺の言ったことを思い出したら、ここに連絡しろ。出なくても必ず折り返すから、と言い含めた。
「…本当はこんな時にお前を置いていきたくない。でも、お前自身が心を決めないと、きっとずっとこのままだ」
そう言いながらも名残惜しそうに、レオンはもう一度クリスを抱きしめた。
「クリス、お前が俺のことまで忘れても、仕方がないのかもしれない。
きっとお前の苦しむ原因を突き詰めれば、どこかに俺との繋がりもあるだろうから」
そう言ってレオンは自嘲気味に笑った。
「それでも俺は、お前を愛している」
 
 
クリスは不思議だった。なぜレオンもピアーズも、こんなにも己に躍起になるのか。
そして彼らからいくら真摯な言葉を掛けられても、何も思い出せない自分に失望もしていた。
忘れたいのか、とレオンは問うた。本当に、自分が忘れたいと願って記憶を手放したのだとしたら
男たちが哀れにすら感じられた。彼らに報えられない。己はきっと、そこまでの男だったのだろう。
彼らが、必死になるような、そんな価値のある人間とは思えなかった。
 
 
 
次の日の朝、ピアーズがクリスの元へ戻ると、部屋はもぬけの殻だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
「…ニヴァンス、少し休んだらどうだ」
同僚のひとりが、ピアーズに声をかけた。本当は自分の言葉なぞもう届かないだろうと諦めてはいるのだが、どうにもいらついた空気に経験の浅い隊員が怖気付いているのに、つい黙っていられなくなったからだ。
じろりとこちらを振り向く殺気立った目つきに、一瞬怯まされるが、殺伐とした雰囲気はすぐになりを潜め、ピアーズは人好きのする笑顔で笑った。
「ちゃんと休んでる。別に無理はしてないさ」
心配はいらないよ、と有無を言わさず会話を打ち切られ、彼の心中を察するものがあるだけに、もうそれ以上口出しできる者はいない。
 
クリスはいなくなった。
退院したばかりの頃もふらりと居なくなることはあったが、手当たり次第探しても今度は見つからなかった。
いなくなった部屋のテーブルの上には、誰のものかわからない連絡先の走り書きだけが残されていた。
…否、誰のものかは分かりきっている。あの部屋の鍵をもっている人間はもう1人しかいない。
だが連絡を入れようとしたのを思いとどまったのは、もし、クリスが彼の元にいったのではなかった場合に、居なくなったことを知らせたくなかったからだ。
ふざけるな。
あのひとは俺たちのものだ。
ピアーズは確かに、彼を手に入れたいと思ってしまった。けれども、その前に彼はBSAAの礎そのもので、ピアーズはそのBSAAの信念を担う中核の一人だった。
彼は俺たちを、家族を愛していた。そこには外野が介入することなぞできない、特別な絆が確かにあったのだ。
彼に着いていくと決意したものたちは皆、それを信じ、恐れを知らず戦い、後を託して逝った。
その怒りも哀しみもすべて、一人で背負ってでも生きていくと決めた男を、ピアーズは愛していたのだ。心の底から。
なんとしてでも、あのひとを見つけ出す。
そして己が運命の前に引きずり出してやるのだ。
 
 
 
 
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
次にクリスを見つけた時にはもう、ピアーズに色恋を匂わす甘さはなく、厳しい参謀の顔でクリスを叱咤した。
クリスもまた、それに応じた。逃げ続けても意味がないことはもう、嫌になる程身に染みていた。
どちらも、口付けを交わしたいつかの夜のことなぞ、おくびにも出さなかった。
そしてクリスが“あるべき自分”に戻るため、再び銃を手にすることになる。
 
誰も、あんな結末は予想だにしていなかった。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
 
 
 
 
 
 
レオンは、かける言葉が見つからなかった。
なんども口を開きかけたが、どれも今のクリスの心には響かないだろうと思い直し、結局、黙ってそばにいた。
クリスは、そんなレオンの心境も分かっているように、ただ静かに微笑み、すまなかったな、と言った。
静かで落ち着いた声も、どことなく哀愁を感じる瞳の色も、レオンが良く知るクリスの表情だった。
しかし、記憶を失った時のあの怯えた目も、中国で対峙した時の激しい怒りも、すべて彼自身のものだ。
自分は結局、彼の一面しか見れていなかったのか。そう言うものを見せていいと思うほどの彼の想いを、得られていなかったのかもしれない。
自分は自惚れていた。連絡先を渡した時、きっとすぐにクリスは自分に縋ってくると思っていたのだ。
いまはもう、濃い藍色の瞳の奥にすべての感情をしまって、「タフな男」の殻で蓋をしている。久方ぶりに訪れることのできたクリスの部屋も、また元の生活感の見えない空間に戻っていた。何もかも元通りになった。表向きは。そのことに、安堵している自分も確かにいた。
それでも、
「レオン。側にいてくれてありがとう」
これからクリスがまた危機に陥った時、誰かの犠牲を目の当たりにした時、なにがあっても、思い出すのは彼なのだろう。
そうして、もう二度と覆ることのないであろうその場所を、己は死ぬまで渇望し続けるのか。
 
あの時、記憶のないクリスを前に、電話が鳴らなかったら。自分がそれを取らなかったら、何か変わっていただろうか。
否、所詮、自分の命の権限はもう自分一人のものではないのだ。それはクリスとて同じで、お互いのために全てを投げだすことなど、望めないのは解っていた。
同じ信念を抱いている。心はいつだって寄り添っている。愛している。そんな言葉をいくら並べても、何にも置いて駆けつけることすら出来ない。
それでも。
それでも俺は、いつかクリスが銃を置きたいと望んだら、この手でどこへでも連れて行ってやりたかった。
 
そしてもうその日は永遠に来ない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ピアーズは満足だった。
体を苛む痛みも、不思議とさほど気にならなかった。
ここももうすぐ、光が届かなくなるだろう。
クリスとあの男がターチィで対峙したときのことを思い出した。
あの時、己をちらとも見なかったあの男と、その言葉ひとつで自分を取り戻したクリスに、猛烈に嫉妬したのも、もう遠い日のことのようだった。
施設が壊れてゆく轟音を聞きながら、今度は最後に見たクリスの表情を思い出す。それだけを最後に焼き付けるように、何度も。
彼は助かる。そしてきっと、これからも希望を率いて戦い続けるだろう。必ず。
そして確信を持っていえる。異形に成り果ててなお、自分に想いを託した部下の犠牲を、一生引きずると。
ピアーズ自身はこの結果がクリスのせいとも、自分が犠牲になったとも思っていない。自分は最善の行動ができたと思っている。そこに後悔は微塵もなかった。
けれどもピアーズには、クリスがそうだと割り切ることなど、決して出来ないことも分かっていた。
自分の存在が彼を縛り付けることを。
それが、彼にとってたとえ後悔としてでも構わない。
彼が礎にしてきた戦いに生きる理由。今度は自分が、その理由になるのだ。
それは、あの人の肌に触れることよりもずっと尊い。
クリスは、俺のものになったんだ。
ピアーズは、知らず知らずのうちに笑っていた。思い残すことなど、何もない。
 

 
 
海底に響き渡る慟哭は、生まれてすぐ死にゆくハオスの叫びか、それとも。