憧憬

それは全くの偶然だった。
久しぶりのオフに何気なく出掛けた市街地でクリスの姿を見つけたとき、一瞬己の願望のせいで見間違えをしたのかとピアーズは思った。
クリスのプライベートは、はっきり言って謎だ。
隊長としてのクリスは厳しくも、 仲間たちを家族と称する気安さがあり、けれども荒くれ達を纏める上官として一歩線を引いているところもあって、隊員同士の馴れ合いとは少し距離を置いていた。
たまにはロッカールームの雑談に加わることもあったが、 自らのことは積極的に話さない。さすがに根掘り葉掘り聞き出そうとする者はいないが、遠慮するのは本人に対してだけで、一番クリスと組むことの多いピアーズなら知ってるだろうと、あれやこれやと問いたださせることがしばしばある。それをピアーズは苦々しい気持ちでいつも適当にいさめていた。
彼らの期待に反して、ピアーズも本当はよくは知らないのだ。
今現在、自分がクリスの一番近くにいると自負していた。そう思わなければやっていられなかった。
なぜなら、いつの頃からかピアーズは、クリスに対して敬愛を越えて傾倒し、平たく言えば色恋の範疇で惚れてしまっているからだ。
もういつそうなってしまったのかも思い出せないくらい、ピアーズにとっては自然な流れで、上司としても人間的な意味でも、そして性的な面でも、自分でも時折そら恐ろしくなるほどにクリスへの複雑な感情をもてあまし、隠し通している。
毎日すぐとなりにいる上官にそんな重たいモノを胸中に抱えたまま接する毎日で、ただ誰よりもクリスに近しいのは自分だと認識することで心の平穏を保っていた。
けれども結局は何一つ、彼の核心に近いところは何も知らない。
目の前の光景が、ピアーズにその事実を叩きつける。
クリスは一人ではなかった。彼に寄り添っているのは、プライベートでもパートナーなのではと噂されるオリジナルイレブンの麗人でも、 彼の溺愛する妹でもなかった。
スラリと長いシルエットの、けれどもしっかりとした体躯を持つブロンドの男だった。
優男じみた横顔はクリスとは全く違うタイプであったが、 モデルのようなたたずまいのその男と、 大柄ないかにも軍人然としたクリスの、種類の違う存在感が、不調和の中で調和し妙に絵になっていた。
二人はカフェテラスにテーブルを挟んで向かい合っており、ピアーズが見つけた時にはちょうど席を立とうとしているところだった。一言二言立ち話をし、そのまま店先で分かれるのか、クリスが握手を求めて手を差し出す。すると男は、その手を握ったかと思えば自分の方へ引き寄せ、近づいたクリスの頬に素早くキスをして、するりと猫のように淀みない仕草で身を翻し去っていった。
そのわずかな一部始終をピアーズは、 地面に足を縫い止められたように立ちすくんだまま凝視するしかなかった。
最初に見間違えを疑った違和感。クリスの纏う、いつもとは違う雰囲気のせいだった。
あんな彼は知らなかった。
クリスの親しい人物には何人か覚えがあったが、その誰と対する時とも違っていた。
知らない者が見ればただ友人同士が一時ふざけただけの短いやり取り。
けれど、笑って離れる男に文句でも言っているのだろう、慌てた様子の照れた、どこか幼げな横顔も、振り返らず去って行く男の後ろ姿を、しばらく立ち止まったまま見つめている視線も、ピアーズの知るクリスとはまるで別人だった。
そしてそれが、決して自分には向けられることなどないであろうその眼差しが、クリスと男の関係性を、今まで誰より近くでクリスを見ていたピアーズに予測させるには十分だった。
一人になったクリスに声もかけられず、今見た光景が己に及ぼす不快な感情をうまく飲み込めもせず、ピアーズは踵を返しただその場を離れるためだけに歩き出した。
どこへ行けばいいのだろう。
 
 
ピアーズは、クリスを愛していたが、彼とどうにかなろうなどとは考えていなかった。
Mr.BSAAと揶揄される堅物のクリスにそんな柔軟性を求める事はおおよそ現実的ではなかったし、本人に明かすにはもう自分の中で複雑に育ちすぎたその気持ちを、言葉や行動に出せば一体どうなってしまうのかを恐れていた。
それよりもこれから長く、信頼され、常に共にいられる関係でいることを心に決めた。
けれども、クリスとあの金髪の男との光景を見てから、ピアーズは想像するようになってしまった。
いままで考えないようにしていた、可能性を。
あの男のように、彼に気安く触れられたなら。
誰よりも大事に思っていることを伝えられたなら。誰よりも俺が、あんな男より、ずっと。
彼の意図を組み、戦場で背中を任せられる。些細な軽口を叩き合い、時には寝食も共にする。
それでよかった。期待され、頼りにもされ、それが誇らしく、何よりも大切だった。
それでも、あんな些細な別れのキスさえ、自分には手に入らない。
 
 
 
素晴らしい人ですね、とフィンが言った。ピアーズは鼻で笑った。
先ほどまで緊張で固まっていた新人は、すっかり安心したように隊長の大きな背を目で追っている。
よく解る。見た目は厳しいクリスの、その低く響く声で優しく語りかけられると、自分が特別になったように感じられる。
自分もそうだった。ここにいる誰もがそうだ。誰にも分け隔てなく、彼はそうなのだ。
そしてクリスは今、自分が奮い立たせた部下達が無残に姿を変えるのを目の当たりし、その絶望を負ったまま深い眠りについてしまった。
記憶喪失。医者はそう言った。
目覚めた時はかなり混乱し取り乱していたらしい。知らせを受け駆けつけたピアーズは、病室の白いベッドに横たわり、鎮静剤で眠らされている青白い顔を呆然と眺めた。
記憶が無いと聞いた時にはショックでいたたまれなかったが、わずかに上下するシーツの波をみて、ああ、無事だった、と、知らせを聞いていままで詰めていた息を大きく吐き出した。
ふらふらと、クリスの顔を見つめたままベッドサイドに寄せられた椅子に腰をかける。
覚えて、無いのか…。
一時的なものだろうとは医者の弁だが、完全には言い切れない、とも言い淀んだ。
大きな作戦の指揮をとっていたクリスの不在は、しばらく混乱を招くだろう。
しかし彼は生きている。ここにいる。自分は、彼を守れたのだ。
とにかく、無事な姿を確認できたことにピアーズは安堵した。
記憶がないとはどういう状態なのか
目が覚めたらどう接したらいいのだろうか…
ふと、クリスのまぶたが震えた。
「クリス…?」恐る恐る、ピアーズは呼びかける。
ゆっくりと、クリスは目覚めた。薬のせいだろうか、ぼんやりと目を開くが、取り乱す様子はない。
が、ピアーズの姿を認識すると、びくりとわななき、みるみるうちに目が警戒の色に染まって行く。
しばし、その見慣れない反応に絶句したピアーズだったが、その、見たことのない不安に彩られたクリスの眼差しと目があった瞬間、ぞくりと覚えのない感覚がみぞおちを駆け上がった。
誰だ、とクリスが言った。厳しい声色だったが、怖がっている。
クリスが、俺を怖がっている。
ショックとは違う何かが、ピアーズの感情を掻き立てる。
彼に存在を忘れられたことを実感したら、絶望すると思っていた。
けれどいま、それとは全く違う、なぜか妙に甘いような不思議な感覚に見舞われている。
そっと、シーツに投げ出されたクリスの大きな手に触れた。
「シー…大丈夫ですよ」
思いの外強い力で手を握られて、クリスはまるで総毛立った犬のように身を固めたが、
優しくなだめるようなピアーズの声色に、怪訝そうにしながらも振り払うことはせず大人しくしている。
そのまま何も言わずに甲を指の腹で撫でてやるうちに、若干だが肩の力が抜け、上目遣いで警戒しながらも、何か言いたそうな、だが言うべきことが何もないような様子でこちらを伺っている。
まるで野生動物のようだ。
おもわずピアーズは笑った。何が嬉しいのか、自分でもわからない。
嬉しい、と表現するのは、いささか不謹慎のようにも思えたが、その時の自分の感情を言葉で言い表すならそうとしか言えなかった。
今のクリスには何もない。怯え、威嚇しているが、その感情がどこからくるのか本人にも解っていない。
けれどやはりクリスはクリスだ。ピアーズが苦悩しながら築き上げた関係も、あの男のことも、そのほかの誰のことも、今はすべて無くなってしまっているけれど。
今は彼が信じるものも、すがるものも、すべて失われてしまった。
認識しているのは、いま目の前にいる、自分の存在だけ…。
 
クリスの呼吸が落ち着くのをまって、ピアーズは口を開いた。
「大丈夫です。クリス。俺は、あなたの・・・・」