Stir up.

軽いノックとほぼ同時にオフィスのドアを開けたピアーズは、室内の光景に首を傾げた。
「何してるんです?」
「ノックの意味がないわね、ピアーズ」
デスクで優雅に頬杖をついているのは、いつもはそこに居ないはずのジルだった。
「うちはみんなそんなもんだよ」本来その位置に収まって居るはずのオフィスの主、クリスはというと、アンダーウェア姿でデスクの前に立ち、体にメジャーを当てられている。メジャーを手にして居るのは、見慣れないスーツ姿の壮年男性だ。
「採寸?ですか?」
「そうよ。スーツのね」
「週末のレセプションパーティーだよ」
スーツ…と、まだいまいち要領を得れていない様子のピアーズに、クリスが忌々しげに続ける。
「ああ、新規にスポンサーシップに加わった製薬会社のやつですね」
てっきり、新しい防具かなにか作るのかと…。
正統派スーツを着こなしをしたテーラーと己が上司のアンバランスなツーショットを見ながらピアーズは心の中で思った。
「前にもわざわざオーダーメイドで作ったのよね。でもまだそんなに着てないうちにサイズが合わなくなって」
うちのお姫様はお金がかかるわ、とジルが茶化す。
「まぁ、クリスに吊るしのサイズは無理がありますしね」
キツくなったんですか?とのピアーズの問いに、逆よ、とジルが答えた。
「うん…エージェント時代よりは少し落ちたかな」
「そうなんですか?」
思わず、クリスの体を見る。
薄い布を押し上げる、鍛え上げられた見事な肉体。そこから伸びるがっしりとした手足は、質量があるせいであまり目立たないがよく見ると存外に長い。元々の恵まれた体格に加え、さらに戦うために誂えられた身体は同性でも思わず見惚れるほどだ。
ちょうど採寸は終わったようで、ソファに脱ぎ捨ててあったシャツにその肌が隠されるのを、惜しい気持ちで目で追ってしまう自分に気づき、不自然な咳払いをするピアーズである。
「ウェイトがあれば良いってものじゃないわよ。パワーがあっても体が重くちゃ…もう少ししぼってもいいくらいじゃない」
スーツも前より似合うわよ、といつになく楽しそうなジルにクリスは苦笑した。
「で、ジルさんは何をしに?」
「クリスにオーダーさせても、”なんでもいい”か”まかせる”しか言わないでしょ。採寸が終わったらあとは私の担当」
お姫様には経費の分、広告塔として貢献してもらわないとね。
さて、と分厚い生地サンプル帳を取り出すテーラーと向き合うジルの様子に、クリスはこっそりため息をついた。

「直前までこれって、ついてませんね」
件の日になった。レセプションの開場時間は差し迫っているが、クリスはまだ自分のオフィスにいる。
「しょうがないさ。予定通りになんていかない商売だってことはあちらさんも解ってるだろう」
「あなた、仕事にかこつけて欠席しようとしてません?」
対して困った様子もなくゆっくりと帰り支度をしている上司を見やってピアーズはにやにやと笑っている。
「言い方が悪いなピアーズ。仕事”で”、”いけない”なら、しょうがないだろう?」
「残念ながら」
ピアーズがこれ見よがしに車のキーを掲げてチャリチャリと揺らす。
「ジルに何かもらったな?」
「諦めが悪いですねぇ…。ほら、早く着替えて」
何かもらった、というのはあながち、間違いではない。クリスからすれば、仕事明けに運転手などやっかいな仕事を押し付けられてご苦労さまなことだと思っているだろうが、ピアーズにとっては役得なのだ。
「そんなに嫌なら、義理だけ果たしたらさっさと切り上げて、飲み直しにでもいきましょうよ」
間違いなく送り届けろとの指令は受けているが、最後まで参加するよう見張れとは言われていない。
「ああ…そうするか」
諦めのため息をひとつつき、着替えの入ったロッカーへ向かう上司の後ろで、ピアーズの機嫌は上向きだ。

どうぞ、とピアーズが後部座席のドアを開けた。普段はそんなことしないくせにと笑うクリスに、曖昧な笑みを向ける。
(ジルさんの見立ては完璧だな・・・)
濃いネイビーのスリーピースの生地は控えめだが上品な光沢感があり、クリスのがっちりとした男らしいスタイルを際立たせた。対して顔周りは淡いパープルのシャツと暖色系のネクタイのやわらかい色合いが全体のダークカラーの差し色となり、強面になりすぎず優しい印象を与えている。
そして今はジャケットに隠されているが、タイトめに作られたベストは、締まった腰を細く見せて且つ、たくましい胸筋が強調されていて、いつもより肌は隠されているにも関わらず、身体のラインを際立たせ、思わず目のやり場に困ったほどだ。
確かに似合っている。
平素とはまた違う、クリスの魅力を際立たせる装いに最初こそテンションが上がったものの、だからこそこれからこの姿を、大勢の人前に晒すために連れていかなければならないことが、ピアーズの胸中を複雑なものにさせていた。

帰る時には連絡ください、との言葉に礼を言い、まだ何か言いたげなピアーズに少し違和感を覚えつつも、受付を済ませ会場へ案内される。遅れて到着したためパーティはすでに始まっており、ホストである製薬会社重役のスピーチの最中だった。来客の視線が壇上へと向いて居るのを幸いに、目立たないよう会場へ紛れたつもりのクリスだった。
が、来客の中で一際大柄なクリスは何もしてなくてもそれなりに目立つ。しかもその体格を生かしたドレスライクなスーツ姿に、見知らぬ者は何者かと興味を抑えきれない眼差しを向け、またいわゆる”Mr.BSAA”としての姿しか印象にない者にとってはそのギャップに感嘆の声すら上がりそうな程である。
そんな視線を集めつつもスピーチが終われば、適当に主賓への挨拶だけすませて去るつもりだった本人の思惑は見事に外れ、入れ替わり立ち代わり声をかけてくるものがなかなか途切れなくなってしまった。
クリスとてそれなりの立場で、会合の場に出ることも有るには有るため、ある程度の受け答えも心得ており、半ば定型化してはいるものの最初のうちはにこやかに応対していたが、さすがにこちらを知らない者に自己紹介までさせられるのには辟易した。
そうこうしているうちに、知らず知らずのうちに間を持たすために空けるグラスの数が多くなっていることに、本人はまだ気づいていない。
場も落ち着き始め、やっと人の流れが途切れてクリスは手にしたグラスの残りをまた一息に飲み干した。
やけに甘い酒だが冷えた液体が乾いた喉を潤すのは心地よい。空になったグラスと交換に次の一杯へ手を伸ばしたとき、
「2杯目は止めといたほうがいい」
突然、そんな台詞に遮られた。
「そのパンチ。口当たりはいいけど度数がエグい」
フランクな物言いに驚いて声の主を見ると、いつのまにかすぐ側に、見知った顔があった。
現れたその姿に、クリスはしばし目を奪われた。
特徴的なブロンドは軽く後ろに撫でつけられていて、いつもよりその整った顔が良く見える。
グレーのスーツに素材感の異なる同色のネクタイ、そしてこれもまた同系色のアイスグレーのシャツと、一見地味になりそうなワントーンのコーディネートだがそれが却って、着ている本人の華やかさを引き立てている。
「レオン…!?」
「驚いた。なんというか…見違えたよ」
まさかさっきから話題の中心になっていたのがお前とはね、クリス。
レオンは褒め言葉のつもりだったが、実のところ先程からの事態で疲れ果て、あまり良い酔い方をしていないところにそれは、なんだか揶揄われたように感じられ、クリスの機嫌は急降下した。
「俺だってこんなところでお前に会うとは思わなかった。偵察でもしにきたのか?」
こっちには、テロを示唆する企業からのうのうと資金提供を受けていた過去があるものな。と、
そんな嫌味が口をついて出た。
それはあるいは、こんな場所で気を使わなくていい相手と出会って安堵した反動かもしれなかった。

「らしくなく、可愛い反応だな?」
事実レオンの目には、そう写ったらしい。拗ねたようなクリスの態度とは逆に、何故か嬉しそうだ。
それがまたクリスの機嫌を逆撫でする。
「悪いが、俺はもう帰るところだ」
口を付けなかったグラスを置き、レオンに背を向けて歩き出すが、心なしか足元が覚束ない。しまったな、と思ったところで音もなく近づいていたレオンがクリスの肘のあたりに手を添える。さりげなく、ふらつく体を支えられているのがクリスにも分かった。
「平気だ、離せ」
「落ち着けって。人目を集めるだけ集めといてぶっ倒れでもしたら、それこそ注目の的だぞ」
一瞬むっとしたものの、続く言葉の通りを想像して確かにとクリスは慌てる。
同時に、何の理由もなく子供染みた振る舞いをした自分が急に恥ずかしくなってきた。
「レオン、その…すまん」
「いいさ」
今度は特に茶化したりもせず、静かにクリスを誘導した。
飲みすぎたという自覚は無かったクリスだが、いざ歩き始めると急激に酔いが回って来たようだ。
レオンに言った通り、もう会場を出て帰るつもりだったのだが、ふらつく足取りを支えられ、歩かされるままにレオンの進む方に従い乗せられたエレベーターは、エントランスのある1Fではなく、上の階に上昇しているようだ。
「俺は今回出張だから、上に部屋をとってる」
少し酔いを醒まして行けば良い。と言うレオンの言葉に、クリスは断ろうとしたのだが、登って行くエレベーターの階数表示を見やり、もう来た道を戻るのも億劫で散漫な意識のままうなづいた。
そこでピアーズの存在を思い出し、連絡をいれておこうとスマホを取り出すが、片方の腕をレオンにとられている状態で、酔った片手で操作が覚束ない。
「なにやってる?」
「いや…迎えを呼ぼうと…」
「貸してみろ」
レオンはクリスからスマホを受け取り、片手で起用にメッセンジャーアプリを立ち上げ、連絡先と内容の支持をクリスに仰ぐ。クリスの言う内容…迎えに来て欲しい旨と、会場のホテルに着いたら連絡を入れてくれという支持…を聞きながら画面をタップしアプリを終了すると、これで大丈夫、とそのままクリスのスマホを自分のポケットに滑り込ませた。
ぼんやりした頭で、とりあえずするべきことを果たして安堵したクリスは、レオンのその一連の動作を見つつも何も言わなかった。

レオンは内心驚いていた。
こうもあっさり手中に収まっては、仕掛けた側からしてもなんだか心配になってくる。
最も、そんなことはおくびにも出さないが。
純粋な親切心と、ほんの少し、多少は好意的な印象をもってもらおうとか、その程度の下心だった。しかし最初の憎まれ口はどこへ行ったのか、素直に付いてくるものだから、どうしてもその先へその先へと欲が出てしまう。
仲間というのか、友人と呼んでいいのか、クリスとは微妙な距離感がある。
知り合った経緯から、親しいと言えるのかもしれないが、お互いのプライベートな連絡先すら知らない。前に会ったときもクレア経由だった。その程度の間柄だ。
しかし、クリスはどうか知らないが、レオンは以前からクリス自身に興味を持っている。そしてその思惑は、接触を重ねるうちに、自分でもおかしな方向に舵を取ってしまって居ると認めざるを得なかった。
今回も、そうだ。
酔った相手の、判断力が低下しているのを逆手にとって部屋につれこむなどと。
そもそも、BSAAに多額の出資をしようとする新しいスポンサーの内情を探るにしても、わざわざこの場に来る必要はなかったのだ。にも関わらず他の仕事の合間を縫ってまで予定をねじ込んだのは、もしかしたら会えるかもしれないと、確信もないわずかな可能性のためだけだ。
…我ながら思いの外、最初からいかれていたのかもしれない。
レオンは己が興味の方向はクリスの内面へ向いているもので、そのルックスに関しては好ましいと思ってこそすれ、さして重要視していないつもりだった。
楽にしてろよ、と声をかけ上着を受け取りハンガーにかけながら横目に見た、ソファにぐったりと沈みネクタイを緩め襟を乱す姿に、だんだんと自分の目的にピントが合ってきたことを感じている。
備え付けの冷蔵庫から取り出した水のボトルを渡してやると、上気した顔で悪いな、とはにかむその表情。
同性でも惚れ惚れする体格とストイックな雰囲気に、今日の装いは独特な色気が有るなとは思っていたが、今まさにその禁欲的な姿が乱れかけているのを目にして、彼に構いたいという欲求はいまや、はっきりと色を帯びたものになっていた。

ピアーズは憮然とした表情でスマホの画面を見ている。
すぐに迎えを呼ぶだろうと思っていたクリスからの連絡がないまま思いの外長い時間待ちぼうけをくらい、やっとかかってきたと思った電話は別の上司からのもので、クリスの行方を尋ねるものであった。
姿が無いからてっきり勝手に帰ったのかと思ったが、早合点だったかもな、と、別段気にして無い様子で、ピアーズへの労いの言葉だけ残して通話は終わった。その上司もどうやらもうそろそろ切り上げるところらしかった。
どうしたのだろう、よしんば抜け出しづらい状況になったとしても、あのクリスが自分を待たせて居ると解っていて一報も入れないのは考えにくい。
だとしたら、なにか面倒なことに巻き込まれているのか、連絡を入れる隙もないほどやっかいな相手に絡まれでもしたか…
そう考えていたところにメッセージの着信があり、急いで確認すると「遅くなりそうなので先に帰っていい」という、そっけない一文だけ。
もちろんその可能性はあったし、文面通り受け取って(ピアーズにとっては面白くない展開だが)帰ればいいだけなのだが、なにか釈然としないものがあった。
しかしあてもなくいつまでも待つわけにも、なんの根拠もなく会場に乗り込んで騒ぎ立てるわけにも行かず、かと言ってすごすごと帰る気にもなれなかったピアーズは、帰宅せず支部へ向かう方向へハンドルを切る。クリスはオフィスに着替えと荷物をそのままにしていたので、自宅より会場から近いこちらに一度寄るかもしれないと、わずかな可能性を考えた。
そうして逆戻りした、主の不在を示す真っ暗な部屋の明かりをつける。着替えはそのままだった。
(荷物も俺もほったらかしか)
アフターを期待して浮かれていた頭が冷え、なんとなくそのまま家路につくのも気が滅入って、ピアーズはオフィスと続きになっている仮眠室へ向かった。
不貞寝を決めこんで2,3時間ほど経過しただろうか。物音と、誰かの話し声でピアーズは浅い眠りから覚めた。
(クリス…?)
こんな時間に、もしかして戻ってきたのかと起き上がったが、どうも一人だけではない様子だ。
何やら言い争っているような会話のトーンに、ドアを開けようとノブを握った手を思わず止める。
「…から、家まで送るって…」
「いいって言ってるだろう。お前に住所なんて教えたくない。さっさと帰れ」
「ひどいな」
「誰のせいだ!だいたい…」
どうやらクリスが誰かに怒っているようだ。珍しいな、とピアーズは思った。クリスが
気を許している相手に、声を荒げるようなところは見たことがない。そして、こんな時間にこんなところで言い争うような相手に覚えもない。もやもやと、嫌な感情が湧き上がりながら、ピアーズはそこから動くタイミングを逃してしまった。
「だいたい…っ、お前が、あ、あんな事するなんて、俺は…」
「あんな、って?」
「…っ、お前がこんなふざけた奴だなんて思わなかったってことだ!」
「別に、ふざけちゃいない。言っただろう?」
なんだ?なんの話だ。
「本気だって」
会話の、内容が見えてこない。
「お前が、好きだ」
あの人と話してるのは誰だ。

「じゅ、順番がちがう…だろ…」
クリスを怒らせて内心は焦っていたレオンの、精一杯冷静を装った真剣な告白で張りつめた沈黙を破ったのは、クリスのそんな一言だった。
「…なんで笑う」
「だって…いや、そうだな。確かに、俺が悪かった」
レオンは勝手にニヤけてくる顔を片手で覆い、しばしクリスから顔を背けた。
憮然とした表情のクリスは、また馬鹿にされたとでも思っているだろうか。それでも、どうしようもなく込み上げてくる愛しさに、レオンの表情筋は緩まずにはいられなかったのだ。
(ああ、そうだ。俺はどうしようもなく、この男を愛しいと思っているんだ)
「クリス」
「…なんなんだ…」
そっと手を伸ばして頬に触れる。居心地悪そうに視線を反らせたままぴくりと戦慄いたが、クリスは逃げはしなかった。いつもより丁寧に剃られている頰の、わずかなざらつきを親指の腹でなぞりながらレオンは言う。俺は、お前が好きだ。
告白の続きはそのまま、クリスの口の中へと消えていく。
「…っ…ちょっとまて」
受け入れかけた唇は一瞬だけ触れると、軽いリップ音と共に遠ざけられた。レオンは素直に待ってやる。もう、そこまで気持ちは焦っていなかった。この身内に甘い思い人が、すでに絆されかけているのが手に取るように解っているからだ。
「うやむやにしようとするなよ…お前は。いつもそうやって簡単に手を出すのか」
「勘弁してくれクリス。全然簡単じゃない…お前を怒らせたかったわけじゃないんだ。お前相手じゃ…取り繕うことも忘れてしまう。どうしてか解るか?」
「…お前に解らないのに、俺にわかるか」
「結局、本当に欲しくなったら、無様に欲しがることしかできないんだよ。俺は」
触れずにはいられなかった。今、手に入れなければ、次のチャンスはまたずっと先だと思ったら、回りくどい駆け引きなど考える暇もなかった。
ホテルの部屋で、酔いが回って意識も散漫になったクリスは、レオンがすぐ側にきても不審に思う余裕もなく、ぐったりとその身をソファに投げ出し、微塵の警戒も見せなかった。
大の男が同性の友人と部屋に二人きりになったところで、何を気にすることがあるのか。それが普通のことなのだが、この時レオンは勝手にも、じぶんがその対象として意識されていないことに、腹立たしさすら湧き出ていた。そう思ってしまうとどうしても、この呑気なお人好しに、知らしめてやりたくなったのだ。
緩んだネクタイを抜き去り、シャツのボタンをいくつか外しても、クリスは抵抗しなかった。ベストのボタンに手をかけたところで、もう大丈夫だ、ありがとうと言って、やっと身じろぎした。レオンが親切で、窮屈な衣服をくつろげてくれているとでも思っているのだろう。
「ほんとに、お前は…」
言葉の意図がわからず、クリスは首を傾げて、ため息をつくレオンを見上げた。はだけた胸元が涼しい空気に触れて心地よい。その素肌にひんやりしたものが触れた。レオンの手のひらだった。気がつけば、クリスの膝をまたいでレオンがソファに膝をつき、ちょうど覆いかぶさる位置にいた。指が、胸元をすべって乳首に触れる。
「…レオ、っ!?」
流石にクリスも何かおかしいと抗議の声を出そうとしたがレオンがそれを遮った。
「…っ、ちょっ…!…ん、む」
抵抗を封じ込めるようなキスだった。
舌をきつく吸い上げながら乳首を捏ねてやると、無防備にさらけ出していた体は為す術もなくびくりと跳ねる。口内を蹂躙する舌の性急さと素肌を撫で回される感触、どちらかを意識して押し返そうとしてももう一方に気を取られてしまい、その上突然のことで半ばパニックになっているのだろう、まだ酔いの回ったクリスはうまく抵抗ができないままだ。気がつけばクリスの背はソファの座面に付き、完全に押し倒される形になっていた。
「ん、あっ…ぁ」
ふいに唇を離してやると、甘い声が溢れ出る。聞いたことのない自分の声色に唖然とするクリスの様子をレオンは目を細めて見やり、自分の唇をひと舐めした。
「え、あ、なに…」
「俺が、気持ち悪いか?」
冷静に、落ち着かせるように問いかけたつもりだったが、語尾はかすかに震えていた。
そんなレオンの思いもよらない悲痛な面持ちに気圧されたクリスはかろうじて「いや…」と否定の言葉を口にした。
それを聞いたレオンの、強張っていた表情が、心底ほっとしたように綻びた。自分が受けた仕打ちと、それを仕掛けた相手の不安げな様子のギャップにあっけにとられているうちに、いつの間にかレオンの手はクリスの股間に伸びていた。触れられて初めて、自分でも気づかない内に、そこがゆるく反応を見せていることを自覚してクリスの頬が朱に染まる。
「ま、て、それは、ぁ…」
「シー……大丈夫だから…」
何が大丈夫なのか。答えになってない。言いたいことは山ほどあったが、再び甘く口付けられながら、ゆるゆるともどかしいと感じてしまうぐらい優しくそこを刺激されて、抵抗する気力が霧散していく。それは、ベルトを外され下着の中を直に触られるまで戻ることなく、整然とした思考をとり戻す前にあっという間に追い上げられ、訳の分からないままにクリスはレオンの手によって吐精させられてしまっていた。

レオンは当然その先へ進もうとしたのだが、我に帰ったクリスにめちゃくちゃに抵抗されそれは叶わず、なんとか宥めすかして、もう何もしないから取り敢えずここに泊まるよう説得した。
対してクリスは、必死に抵抗するものの、ただただ恥ずかしさと流された己の情けなさばかりが先に立ち、レオンとその行為に対してはやはり「気持ち悪い」とは思えなかった。そしてそう思えない自分の後ろめたさを払拭するように、ことさらレオンへの怒りを強調し、それを言い訳のようにしてレオンから逃げようとした。
つまるところ、クリスは、レオンの不誠実な行為に怒っていることにして早くこの問題から逃れたかったのだ。だからレオンに、真剣に愛を告げられては困るのだ。真摯に向かい会おうとする相手にどうしても背を向けることができない。冷静に考えればされたことに対してクリスが怒るのは無理もなく、その後の言い訳をつっぱねても非難されるような謂れはないのだが、それが出来ないのがこのクリスという男である。
「俺は、お前を、そういう風に見たことはなかった」
そうして、クリスがそういう男であるということを、レオンは十分に知っていた。
「知ってる。そりゃ…そうだろうな」
「…っ、でも、だからって、お前のことを、その、気持ち悪いとかそういう風には思わない…」
明らかに肩を落としたレオンをフォローするかのように、すっかり怒りの萎えた様子で続くクリスの言葉に、レオンは表情には出さないものの、手応えを感じていた。
「今は、それで…十分だよ」
「レオン…」
それは嘘だ。本音を言えば今ここで先ほどの続きをしてこのお人好しに知らしめてやりたい。
けれどもクリスのこの様子から、今ここで関係を急ぐより、長期戦に持ち込んでしまえば、この先自分の手中に収めるのも容易だとレオンは踏んだ。一時の関係で終わらせる訳にはいかない。正直今のシチュエーションは惜しいが、彼との関係を確実に築くためには耐えるだけの価値がある。
「クリス、また、会えるよな?」
「……ああ」
そうしてレオンはクリスの個人的な連絡先を得、自分を意識するよう種を植えつけることに成功したのだった。…その後、クリスの痴態を思い出して悶々と過ごすいくつかの夜と引き換えに。

レオンが去ったあと、クリスはしばらく呆然と立ち尽くした。多少気だるさは残るものの酔いのほうはすっかり冷め、しんとした部屋で数時間前からのジェットコースターのような展開を反芻した。
自分はあのレオン・ケネディに、ホテルに連れ込まれて流されるままイカされて、愛を告白されたのか。
クリスは深くため息をつき、デスクの椅子に座り込んだ。さっさと帰れと言ったのは己なのに、訳の分からない自分の気持ちごと、置き去りにされた気分だった。
幸か不幸か、自分とレオンは物理的にも状況的にも、いつでも気軽に会えるような距離ではない。レオンがクリスに与えた猶予のおかげで、すぐに答えを出さなければいけないわけではないことに、とりあえずは安堵した。
一晩にも満たない間に随分と疲れてしまった。とりあえずさっさと着替えて、今夜は仮眠室を使うことにしようと、重い腰を上げた時、クリスが向かおうとしていた部屋のドアが開いた。
「!?…ピアーズ?」
色々あってすっかり忘れていた部下の姿を見て、クリスは慌てた。そういえば、迎えに来てくれとレオンに伝言を頼んだあと、何も連絡をいれてなかったことを思い出す。
急いで謝ろうとして、ふと、先ほどまでの状況を省みる。つまり、静まり返った夜のオフィスで先ほどまで口論していたレオンとのやりとりと、その間ドアを隔ててすぐ隣にいたであろう、ピアーズの存在を。
「ピ、ピアーズ、あー…」
「すみません。聞いてました。全部」
「そ、そう、か」
そしてまた、沈黙。連絡を忘れたことは別にして、誰かに対して後ろめたいことをしたわけではないはずだが、どうにもばつが悪い。
どう説明しようかクリスが考えあぐねていると、先に口を開いたのはピアーズだった。
「どこかで聞いた名前だと思いました。レオン…レオン・S・ケネディだ。D.S.Oのエージェントですね」
あの人と貴方が、まさか、親密な関係になっているとは、思いも寄りませんでした。
放って置かれたことに怒っている様子もなく、レオンとのやりとりに不快感を示すこともなく淡々とした態度に、クリスは幾分か、安心した。
「ピアーズ…まず、お前を待たせていたのに、勝手に移動して、すまなかった。それで、あいつとは…あいつと俺は…ええと…」
ピアーズは、優秀だ。いつでも的確な判断ができる。気さくで人懐こいが、人のプライベートに闇雲に干渉したり、偏見を持ったりする浅はかさもない。この時クリスは、多少情けないが、混乱した自分のこの状況を、彼になら相談してもいいのではないかとすら、思っていた。
「無理矢理では?」
「え?」
「クリスが優しいのを良いことに、同情を誘って許されようとしているようにしか、自分には思えませんでした」
差し出がましいですが、とは付け加えたものの、きっぱりと、やたら丁寧な口調でピアーズは言い切った。
「それとも、クリスは生理的に無理じゃなければ誰とでも寝れるんですか?」
「なっ…!そんな訳ないだろう!」
「ですよね、だから、無理強いされて、怒ってたんですよね?本当は、嫌だったでしょう?」
ピアーズはそこで、にこりと笑ってみせた。どことなく有無を言わせない笑顔だ。クリスは違和感を感じながらも、それを否定する材料も無く、そうかもしれない、と答えた。
「そうですよ。俺なら、”順番”を間違えたりしませんし?」
「からかうなよ…」
「でも、普通に男だからって断ればよかったじゃないですか。クリスはストレートでしょう?」
あれ?違ったんですか?と首をかしげるピアーズに、クリスは慌てて否定した。否定しながら、そう言えばレオンもヘテロだと思っていたが、どうなんだろうと、今更ながらに疑問を持った。レオンが、当たり前のようにするから、何故かいままであまり引っかからなかったのだ。
「まあ…全くしらない男からならゾッとするが、あいつの人となりはわかってるし…」
「それなら、俺にもチャンスはありますね」
「あぁ……なに?」
‘’それなら‘’に続く内容の意味が分からず、クリスは先程から微妙に噛み合わない問答をよこしてくる部下を怪訝な表情で見やる。
「好きですよ、クリス。俺はずっと前から、あんたを愛してます」
さも当たり前のことのように、ピアーズは言った。
「…このタイミングでその冗談は、笑えないぞ…」
「そうですね。冗談じゃありませんから」
「…」
クリスが何ともいえず黙ってしまうと、そんな顔しないで下さい、と、やっといつものピアーズらしい顔で困ったように笑った。
「貴方を困らせたくなかったけど…俺はね、クリス。貴方が一番大切で、それ以外はなんでもいいんです。こうやって…」
そっと、ピアーズはクリスの手を取る。ぴくり、と警戒したクリスの肩が揺れるが、黙ってされるがままになっている。
「貴方に迫って、無理矢理触れても、貴方からの気持ちがなければ、俺には意味がない。
俺、本当はすげー重いんですよ。だからあんまり、あんたには気づかせないつもりでいたんだけど。でも」
そうして、ピアーズはそっとクリスの指に口づけた。
クリスは少し手をひこうとしたのだが、思いの外がっちりと握られていて、そして、穏やかな口調とは裏腹に、逃げることを許さないとでも言いたげな己を見上げる眼差しに、ギクリと狼狽えた。
「あんないい加減そうな男に、あんたを横からかっさらわれるなんて、冗談じゃない」
「…っ」
弟のように可愛がっていた部下がまるで、知らない男のようだった。
向けられているのは好意のはずなのに、責め立てられるような気迫にクリスは後ずさった。
しかしクリスが怯んだ瞬間からさほど間を置かずにピアーズは、ぱっとその手を離して上司を解放した。
「すみません、疲れているのにこんな話。部屋、使うんでしょう?ただ、俺も今から帰っても1時間も寝れないんで、隣のベッド借りますけど、いいですよね」
「あ、ああ…」
ただただ唖然としている自分を置き去りに、さっさと切り替えてテキパキと仮眠室の簡易ベッドを整えるピアーズの後ろで、とりあえずクリスももそもそと動き始めたが、上着を脱ぎ、シャツのボタンに手をかけたところに視線を感じて、そちらを見れないまま固まった。
「あ、警戒しなくても、俺は同意もなく変なことはしませんので」
意識してるんですか?それならそれで嬉しいですけど、と笑うピアーズにクリスは何も答えられず、開き直った部下にもしかしてこれからずっとこういう感じで接されるのかと思うと、もう力なく曖昧に笑うしかなかった。

「…なにか良いことでもあった?」
レオンが戻ってきたと聞いて、次の依頼を抱えてやってきたハニガンは、怪訝な表情で長年の相棒を見た。
デスクにいる時はいつも不機嫌そうに報告書とにらめっこしているレオンだが、今日は仕事用のPDAを脇に置き、上機嫌で自分のスマホを弄っている。
「まあね。仕事か、ハニガン」
「ええ、楽しそうなところに水をさすようで悪いけれど」
運命の一夜が明け、レオンはさっそく逸る気持ちのままクリスの機嫌と、次の機会を伺うメッセージを送ろうとしているところだった。
「やっぱりプライベートにハリが出てこそ、億劫な仕事にもやりがいが生まれるってもんだな」
送信ボタンを押し、にこやかな表情でハニガンに向き合った。
「…どうしたの。らしくなさすぎて気持ち悪いんだけど」
「なんとでも」
まあいいけど…とハニガンが仕事の話を始めようとしたとき、レオンが手にしたままのスマホが震えた。瞬間、ものすごいスピードで背を向けて、再び画面へと意識を移すレオンに彼女のため息は聞こえない。
しかし、
「…なんだ…これ…」
送られて来たのは、一枚の画像。
それは、明らかに自撮りではない、クリスの寝顔写真だった。
そして間髪入れずにその下に、たった一行
”クリスなら、まだ寝てるよ”

「ちょっとレオンどこに行く気!?次の仕事が…」
「そんなもの俺じゃなくてもいいだろ!キャンセルだキャンセル!」
「できるわけ無いでしょう!」
「クソッ…誰だあんな…いや、クリスに限って昨日の今日でそんな…まさか…」
いきなり思いもよらない謎のライバルの存在を知り、レオンが嫉妬と独占欲を燃え上がらせて居る頃、
満足げに見下ろすピアーズの横で、とりあえず寝て起きて日常に戻れば皆正気に戻るだろうと、半ば現実逃避気味に安眠を貪っているクリスは、執行猶予が思ってるほど長くないことを、まだ知らない。