稽古中の楽屋のソファに深く腰をかけ、ピアーズはイライラとした雰囲気を隠しもせず、他の者を一切寄せ付けずにいた。
自分の仕事のない時も、後輩の面倒見よく足繁く稽古場に通うクリスの姿は今はない。
現在、新作映画の撮影のため長期のロケで不在中だ。
ピアーズの機嫌が悪いのはクリスが不在だからではない。その映画がクリスと、ピアーズが最近はっきりと恋敵だと自覚した大手事務所の人気俳優、レオン・S・ケネデイとのW主演だというその事実に対してだ。
今ピアーズが親の仇のごとく睨みつけているSNSのシリーズ公式アカウントは、必要以上にベタベタとクリスに絡むレオンの投稿で埋まっている。
いままでの俳優レオン・S・ケネディのイメージを揺るがす朗らかな笑顔でスキンシップを繰り出すその写真にはどれも大量のlikesがついており、プロモーションの効果は抜群のようだった。
「何見てるんですか」
まるで難解な文献を読み解こうとしてるかのような険しい眼差しでスマートフォンの画面をスワイプしているピアーズの頭上からつまらなそうな抑揚で声をかけるのは、シリーズ前作で共演したジェイク・ミューラーだ。まだ俳優としての活動の浅いジェイクは、演技指導を受ける名目でこの劇団にも時々顔を見せていた。
なんとなく遠巻きにされているピアーズの機嫌の悪い空気をものともせず話しかけてきたジェイクに、なんでもない。久しぶりだなとピアーズが声をかけると、小さく頷き向かいに腰をおろした。無表情で一見不躾のように見えるが存外礼儀正しく、顔に出ないだけでなかなか良い性格をしていることは、前回の仕事を通してピアーズも知っている。
「クリスさんとはうまくいきましたか?」
「はあっ!?」
不意打ちの質問に大きな声で動揺するピアーズの反応も気にせず、あれ、まだ言ってないんスか。たぶんもうバレてますからちゃんと言ったほうがいいですよ。と、適当に天気の話でもしてるかのような声のトーンで言う。
「おま…あのなぁ…」
そういえば、撮影中にもそんなことを言われた気がする。無愛想な表情で淡々ととんでもないことを言うので、最初は喧嘩を売られているのかと思ったものだが、どうやら表情が乏しいのにも発言の真意にも裏表があるわけではなく、この男はこの男なりに、気を利かせているつもりらしかった。
なんでそんなに気になるんだと聞けば、ピアーズさんもクリスさんも良い人なので、うまく行けば良いなと思って。などと嘯くので、調子が狂う。
「残念ながらクリスは、今はこの色男に夢中だよ」
ヤケクソ気味にテーブルに置かれたスマホを手の甲で叩く。「”今は”、な!」
「そんなにいい男ですかね」
SNSアプリが開かれたままの画面をちらりと見やって、そこまで他と違うとは思いませんけど、と首をかしげる様子に、そうだこいつ元々モデル畑の人間だったとピアーズは肩を落とした。
まあよくはわからないが、本当に応援はしてくれているようだ。しかし本音と建前という感覚が良くも悪くも薄いこいつのことだ。クリスやその周りで妙な発言をしていないだろうな、と考えてそこでふと、聞きたいことが浮かんだ。
「ケネディのほうが俺より、クリスと近そうだとは思わなかったか?」
認めたくはないが、雑誌のインタビュー記事で明かされた二人のやりとりや、ラフに雑談するオフショットを撮られたりと、二人が存外親しいというイメージが関係者間にもできつつある。同じ劇団でそこそこの時間共に過ごしてきた自分とよりも、世間ではあの華やかでゴシップもそこそこなスターと、堅実な仕事ぶりのお堅い舞台俳優という対極な二人の組み合わせが面白いらしい。
自分はレオンと接する場面はほぼ無かったが、ジェイクとはこちらとも向こうとも、同じぐらい共演するシーンがあったはずだ。
ジェイクから見て、レオンはどんな人物像なんだろうか。
ジェイクはあー、と、否定するでもなく返事はしたが、あの人は、なんか…と、適切な言葉を選ぶように続きを言い澱み、
「クリスさんには、難しいんじゃねぇかな」
と、何か彼にしては珍しく歯切れの悪い言い方で呟いた。
あいかわらずジェイクの言葉はよくわからない。が、よくわからないなりに、ピアーズの胸中に残った。
クリスは、自分でも自覚があるのだが、比較的考え方が古いタイプの人間だと思う。
スマートフォンに入っているプリセット以外のアプリはクレアやピアーズが勝手に入れたものだし、メッセンジャーアプリを使うなら電話のほうが手っ取り早いと思っているし、SNSもやってない。特に芸能界の人間が個人情報に等しいものを何故自ら公開するのか不思議にさえ思っている。一度ピアーズにそれを言ったらソーシャルメディアのPR戦略やらインフルエンサーマーケティングがどうとかいう講釈を垂れられて辟易して以来、口にはしないようにしているが。
そんな古い頭では、レオンが嬉々として二人の関係を匂わすような写真を撮って尚且つ、何故か周りにそれがウケていて、むしろ微笑ましくとられて深読みさえされないこんな状況がいまいち理解できない。
「これくらい、お遊びの範疇だろ?」
ロケ先のホテルで、レオンは当然のようにクリスの部屋でくつろいでいる。ソファと揃いのオットマンに投げ出された長い足を見やりながら、ひと部屋分の料金がもったいないよなあと、所帯染みたことを考えてしまうクリスである。
レオンのスマホをおぼつかない手つきでつついているクリスに、カミングアウトしてる大御所が山ほどいる時代に、どうしてそこまで神経質になるのか、そっちのほうが俺は不思議だね、とレオンは言った。
「いや、そこに不満があるわけじゃないよ。良いことだと思うし、それで問題が起きてほしい訳でもない。」
「そうだろ?むしろ、数ブロック女と並んで歩いただけで有る事無い事書かれることのほうが俺には不思議だね」
その手のことで散々クリスに言い訳じみた弁解をしてきたレオンのその言い分に、うんざりとした実感がこもっている。
最も、忙しい合間を縫っては自分に会いに来ていたレオンを知っているクリスとしては、余所見などする暇がないことは(身につまされて)解っているので、まったく疑ってなどいないのだが。
「けどお前は、”そう”じゃ、ないだろう」
自分はともかく、レオンが偏見の目にさらされるのは嫌だ。いくら表向きの綺麗事で覆われたとしても、本質を見ようとする人間なぞ限られているのだ。
ここに至るまでのレオンの努力を知っているから、それをふいにすることだけはしたくなかった。
「”俺たち”は、違うって?」
そんな考えを巡らせているうちに、クリスの隣に座りその手にあるスマホの画面を覗き込んだ視線のままのレオンの、声のトーンがひとつ下がったのを察して、しまったと思ったが、遅かった。
「何も違わないじゃないか?俺たち、恋人同士じゃないのか?」
ソファの上で、レオンがあっという間に距離をつめる。とっさに落ちないように大きな体を縮こまらせて動けないクリスに倒れこむように覆いかぶさってくる。
「仕事中は、いやだ・・・」
狭いソファの上でバランスを取るため頼りない力でしか押し返せないクリスが、せめてもの抵抗で反らした首筋の無防備さにレオンがにやりと笑ったかと思うと、あっという間に食いつかれた。
撮影途中のクリスは、役に引っ張られているところがある。いわゆる憑依型の役者だとレオンは思っているのだが、クランクアップを迎えしばらくするまでは、幕間でもどことなく「BSAAのクリス」を纏ったままでいる。
堅物で羞恥心の強い「クリス」の体を暴くことは、レオンにいつもより背徳的な快感を覚えさせた。
素のクリスはあまり物事に頓着せず、柔和な雰囲気を纏っているため周りに人が多かったが、人に対して壁も作らない代わりにどこか捉えどころがなく、自己主張が余り無い。だからこそ他人を演じることが板につくのかも知れない。
正しく恋人と呼べる関係になるまでは紆余曲折あったが、クリスは最初からレオンの存在を受け入れてくれていた。
そのことに浮かれていた時もあったがその後すぐに、それは特別な誰かに対してだけではないのだと気づいてしまった。
だからレオンはいつでも不安なのだ。分け隔てない彼の”その他大勢”の中から、いつまた自分みたいな者が現れて、彼の懐に飛び込もうとするのではないか、そして彼が、それを簡単に受け入れてしまうのではないかと、いつも恐れている。
「ひどくしなから、な?大丈夫…」
レオンの苛立ちを感じて身構えているクリスを宥めるようにキスを繰り返し囁くと、抵抗をあきらめ、不安定な体制を整えようと腕の中で身動ぐ大きな体が愛おしい。
「う・・・・っ」
「クリス、好き」
自分はクリスとは違う。台本に描かれているキャラクターを演じるのは得意だが、こんなときどこかのエージョントのような気の利いた皮肉のひとつも言えない。
それにいろいろな言葉をいくら注いでも、クリスは柔らかく受け止めるだけで、自分の気持ちと一緒にすり抜けていくように思えて、言葉を並べ立てるのももどかしいレオンは感情のままにクリスを抱く。
服をたくし上げてしっかりと鍛え上げられた胸に手を這わす。手のひらにずっしりと吸い付く質量を楽しみながら、指でその頂きを捏ねてやると、押し殺した吐息がクリスの唇から漏れる。
ぎゅっと目をつむり快感をやり過ごそうとしている可愛い顔を見ていると、明日の仕事に響かないように、などという労わりの思いは隅においやられ、はやく繋がりたいという欲求ばかりがレオンの頭をいっぱいにする。
口に含んで固く尖った弾力が舌を押し返してくる感触をしばらく楽しんだ後、鳩尾、腹、臍へと順にキスを落としながら下へ進んでいくレオンの髪をクリスが慌てて捕まえた。
「レ、レオン、せめてベッドに・・・」
「待てない」
レオンの下から抜け出そうとずり上がるクリスを抑え、クリスの抗議の声も聞こえないフリで下半身の衣服を取り去った。膝の下に手を入れ太ももが完全に腹につくまで押し上げると、ゆるく反応を見せているクリスの肉にためらいもなく口をつけた。
「あっ、あ・・・それ、やめ、」
わざとあからさまな水音を立ててやるとクリスは嫌がり、レオンの嗜虐心を少しだけ満たす。
「抵抗すると、つらくなるぞ」
ローションもゴムも、いま手の届くところには無い。
唾液と先走りを音をたててすすり、溢れたそれが完全に立ち上がったクリスのペニスを伝って後方にも流れていく。窄まりに流し込むように舌で擦りつけてやれば、レオンの頭を挟むクリスの足がびくびくと細かに震えた。
それでもまだ耐えようともじもじと膝をすり合わせるクリスの、すすり泣きのようなか細い喘ぎが耳を刺激し、レオンは痛いほど張り詰めたジーンズの前をあせった手つきでくつろげた。
「・・・シャワー使ってくる」
お前は、来るなよ。と、引き止めようとしたレオンの腕を押し戻してよろよろとクリスは立ち上がった。
「ここにいてよ」
そう言うレオンの言葉にも耳を貸さず、ぷいっと顔を背けてバスルームに行ってしまった。
「あーあ。かわいいんだから…」
無視されたのにも関わらずむしろ機嫌の良い声で、レオンはクリスに聞こえるように言う。
クリスの怒りが持続しないことをレオンは知っている。ただ、怒ったフリでもしていないとこの調子のいい年下の恋人をつけ上がらせるから、そういうポーズを取っているだけ。こういう茶番は嫌いじゃない。
いくら執拗に抱いても、朝になれば淫猥な夜の出来事なぞおくびにも出さず光を浴びてカメラの前に立つのだ。
クリスが自分との関係を完璧に隠そうとしているのに、それをぶち壊そうとする意思は今の所ないが、この関係を恥ずかしいことのように扱われるのはレオンには不満だった。
暴露することで、クリスに纏わりつく他の人間を牽制できるならすぐカミングアウトしたいくらいだ。
仕事は好きだ。目標もあって、それのために努力もしてきた。
けれど何もかもクリスの存在を前にすると、そこまで執着するほどのものでもないように色あせて見えた。
クリスはレオンのキャリアを心配しているが、バレた時に立場が脅かされるのは、クリスも同じ。むしろエージェントの後ろ盾が弱いクリスのほうが危ないかもしれない。
クリスがそこまで考えているのかは知らないが、レオンは時々、すべてがバレて、立場を失ったクリスが完全に自分のものになることを想像する。クリスから生きがいを取り上げたくはない気持ちは嘘ではないが、クリスが自分のためだけに生きてくれるなら・・・。それは甘美な妄想だった。
使命や重荷など、映画の中の話で、現実の自分たちを阻む障害など、些細なもののはずだ。
ふと、視界の端に光るものを感じてテーブルの上を見ると、サイレントになっているクリスのスマホが着信を通知していた。
迷うことなく画面を開くと(クリスは面倒臭がって端末に鍵をかけない)なんてことのない様子伺いのメッセージ、その差出人を確認したレオンの片眉がピクリと跳ねる。
ニヴァンス。クリスが可愛がっている劇団の後輩。クリスの跡を付いて回っているのが子犬のようだとからかう者もいたが、そんな可愛いらしいものじゃない。
相手からすれば歯牙にもかけてないように見えるかもしれないが、レオンは決してその男を侮っている訳ではなかった。脅威だとすら思っている。
最初は昔の自分のようなやつがまた現れたと思った。だが、ストレートにクリスに迫って押し勝った自分とはちがい、やつは控えめで、従順で、そして強かだ。
少しずつ、仕事で離れている間のクリスの時間に侵入してきた。時間をかけて、そばにいるのが当たり前だとクリスに思わせた。
邪魔だな。
クリスは自分を裏切ろうとはしないだろう。けれどレオンには、大急ぎで築き上げたこの関係が、外からつつけば壊れる砂の城だという感覚が、いつまで立っても消えなかった。
もっと、確実なものが欲しい。
クリスが自分から離れらない、確実な何かが。
「ちょっと優しくしすぎたかな・・・」
ためらいなく画面をスワイプして新しいメッセージを消去したスマホをソファに放り投げると、迷いない足取りでクリスの後を追ってバスルームに向かった。
了
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