DESNOS

(※ヴェンデッタベースで一部設定とストーリーを捏造しています)
 
 
早くこの場を立ち去りたくて、男は苛立っている。
取引相手が指定したのは、辺鄙な郊外にある気味の悪い洋館だった。
「自分の立場が解っているのか、グレン」
グレン・アリアス。かつては裏社会に名を馳せた遣り手の武器商人だった。
「もちろん。悪評にも関わらず応じてくれて感謝しているよ、友よ」
しらじらしく感謝の言葉を流暢に口にする相手に、男は内心で舌打ちをした。
「悪評なんてもんじゃない。とんでもないヘマをしたものだ。昔のよしみで忠告してやるが、お前はもう足を洗ったほうがいい。命が惜しいならな」
これで最後だ。と、男がスーツケースを放る。埃を立ててアリアスの足元に落ちたそれを、後ろに控えていた男が拾い上げた。
アリアスの背後から現れた思いの外大きな影に、男は思わず後ずさった。
それは、アリアスが生物兵器に手を出すようになってからいつも連れていたボンデージルックの女ではなく、初めて見る大柄な暗い色の短髪の男だった。
格好はあの女と似た系統のもので、体のラインに沿う黒いレザーのノースリーブとパンツを身にまとった、いかにもパワーファイターという体の強面の男が、細身の三揃いを着こなすインテリめいた壮年のアリアスの、斜め後ろに控えめに付き従う樣は、前の女とはまた違った、どこか倒錯めいた雰囲気を醸し出している。
「…”それ”は新しいサンプルか?」
あまり、無駄口を叩くのは避けたかったが、思わず男はそう尋ねていた。
「”これ”は売り物ではないよ。うまくいけば画期的な商品になるだろうがね、不安定すぎて、こんなにうまく適合する個体はそうそういないんだよ。」
残念がっているように見えて、アリアスの口調はどこか自慢げだ。
彼のお気に入りの”それ”は、自分の話をされていると解っているのかいないのか、静かな視線を宙に投げかけたまま、じっと佇んでいる。
そうか、と男はそれ以上尋ねなかった。アリアスがかつて扱っていた”商品”は、男たちにとっても有用になり得るもので、正直に言うと彼との取引を失うことは惜しかった。だが、それは彼が上手く立ち回っていた時の話だ。あの”ヘマ”さえなかったら。
「大方はお前はもう死んだと噂しているよ。悪いことは言わない。そう思われているうちに消えたほうがいい」
たじろいだことが悟られないように、苦笑まじりの口調で男は言った。男の後ろにも数人のボディガードが控えている。ただの身辺警護にしてはいささか、物々しい装備だ。
アリアスはちらりとそれを見やり、「そうだな。そうしよう」と、拍子抜けする素直さで頷いた。
「それがいい…」アリアスの返事に、男は口元に強がるような薄笑いを浮かべた。「お前の個人的な復讐劇で、こちらの仕事が脅かされてはたまったものじゃないからな」
 
 
 
「友人を失うのは悲しいが、それも仕方がない。利益を優先するのが、商人の性だ」
静けさを取り戻した洋館のホールで、アリアスはどこか芝居掛かった口調で言った。
「一見、力押しのファイターに見えるがね、彼は射撃が一番得意なんだよ」
転がったスーツケースを拾い上げ、埃をはらいながら言うアリアスの言葉に、応える者はもういなかった。
先ほどまでぐだぐだと場を引き延ばす御託を並べていた男は、役立たずの銃を握った彼の兵士達とともに物言わず床に転がっている。
”彼”は熱くなった銃身を太腿のガンホルダーに納め、何も言わず彼の主人に静かに目礼する。
アリアスはその姿を満足げに眺め、彼の逞しい二の腕をゆっくりと撫でた。
「良い子だ。レッドフィールド」
 
 

 
 
——
 
 
 
「どうなってる…!」
腕の中でどんどん冷たくなっていくレベッカの細い体を抱いてクリスは叫んだ。
ウィルスIIIの詰まったガスタンクから伸びたホースとマスク。時間はまだあったはずだ。
行く手を遮ろうとしたアリアスの仲間の女を食い止め、もう一人のデカブツも激闘の果てに、レオンとオスプレイで合流したナディア達に倒された。
運び出されたウィルスIII…a-ウィルスの自殺遺伝子に作用する『安全装置』も、すぐに街中にばら撒かれるだろう。
すべて作戦通りに進んだ。だが、なぜ、なぜ、レベッカだけがーーーー!!
「残念だが、レベッカ・チェンバースに投与したのは従来のa-ウィルスとは少し違う」
いつのまに近づいたのか、アリアスが一定の距離を開けてこちらを見ている。
レベッカを腕に抱いて膝をついたクリスは、呆然とその姿を見上げた。
アリアスもまた、ペントハウスでの戦闘により、かなりのダメージを負っているはずだった。
きっちりと撫で付けられていた髪は乱れ、血に濡れ、それでも不敵な笑みでそこに立っている。
まだ余裕が残っているのか、それとも最後を覚悟した開き直りかーーーどちらにせよ、その佇まいは絶望に青ざめたクリスとは、対照的だった。
「うまくいけば妻の代わりの人形にでもなるかと思ったが、どうやらその資質なはかったようだ」
ーーー彼女の代わりなど、初めから、何処にも有りはしないのだ…
アリアスの、独り言のような呟き。腕の中で痙攣するレベッカの冷たい体が、一刻の猶予もないことを告げている。
「さあ、次はどうするんだ、クリス・レッドフィールド。もう、そう時間はないぞ」
「助けてくれ」
無意識に、頭で考える前に、懇願が口をついて出た。「レベッカを、助けてくれ…」
「では、君が代わりになるか」
アリアスは、怪我でおぼつかない手つきで、しかし見せつけるように小さなアンプルを取り出し、クリスの目の前に携えた。ゆっくりと、中身を注射器で吸い上げる。
「これで彼女は助かる」
交換条件と行こう。疲れ切った声で、楽しそうにアリアスが言う。
「私と来い。レッドフィールド。それで彼女は元どおりだ」
 
 
——
 
 
 
敵味方を判別するウィルス。大量生産できるが対バイオテロ対策の進んだ特殊部隊の前では耐久性の弱い所詮使い捨てのB.O.Wである。その点ではまだ発展途上の代物だ。これと同じ方法で身体能力のリミッターを外し、なおかつ人の姿のまま、理性で判断することができる私兵を増やすことができたらこれほど強力なものはない。
しかしそんな都合の良い魔法の薬を安定して作れるようになるにはまだまだ時間も技術も足りず、ごく低確率で定着する可能性のある試作品が僅かに残ったまま終わっていた。
チェンバースには自分らしくなく過度な期待を持ってしまった。もしかしたら彼女は特別なのではないかと。
だからクリス・レッドフィールドへの投与も、ただ変わり果てた姿で彼らの仲間に、あのブロンドのナイト気取りのエージェントにでもけしかけてやれば多少は溜飲も下がるだろうという程度の考えだった。
だが奇しくもこの対B.O.Wのヒーローは、いままでのどのサンプルにもない見事な適応を果たした。
特に思惑があったわけではなかった。もちろん、チェンバースを助ける義理などない。
あれほどまでに己の手を煩わせた男が、死にかけの女一人を抱えておろおろと助けを乞う姿に、少しばかりの失望と、興味が湧いただけだ。
失くしても失くしても戦い続けて来た男が、最後にはどうなるのか。
レッドフィールドのことはそれなりに詳しく調べていた。この界隈で彼の存在を無視して商売する事は難しい。
この男もまた、近しい者を大勢見送ってきたようだ。
かつては正義感に燃えて立ち上がった青年も、やがては怒りに我を忘れ、自分に失望し、そうして幾度となく絶望しただろう。
彼もまた、復讐者なのだ。
初めてクリスと対峙し、その怒りを一身に浴びた時にアリアスはそう確信していた。
今、あの時燃えるような憎しみをを写した瞳は形を潜め、静かな色を湛えてアリアスのそばにある。
無骨な装備に身を包んでいた時には厳つさが先に立っていたが、こうしてみると存外穏やかな顔つきをしていることが分かる。
古めかしい洋館の窓から差し込む月の光に青く照らされ、陰影を濃くした表情は確かに壮年の男のものであるが、その完璧に近い力強い体躯も優秀な行動力もいまや、”主”に従わなければ動けぬものに成り下がり、放っておけば立ち尽くす迷子のように意志薄弱な様相が、従来の彼とのギャップのせいか、妙にアンバランスで、ある種の色気を孕んでいる。
白々と月光に浮かびあがる頰に、思わずアリアスは、手を伸ばしていた。
頬を覆っていた無精髭は今朝剃らせたばかりで、ひんやりとした肌が手のひらに馴染む。
親指で下唇の弾力を押すと、クリスはふっと息を吐き、僅かな刺激に目を細めた。
それは条件反射かもしれなかったが、まるで微笑みのような弧を描き、吸い寄せられるようにアリアスは口を寄せた。
 
 
あの燃えるような怒りの火を思い出している。
血の気を感じられない白い肌の冷たさに反して、クリスの中は熱くアリアスを受け入れた。
体に与えられる刺激に機械的に反応しているだけだと、頭の片隅では解っているものの、アリアスを包み込む肉のうねりに、ゆすぶられるリズムと同じ間隔で僅かに喉の奥からこぼれ出る声に、嗜虐的な欲を擽られている。
ウィルスは人間の種の保存に関わる本能を失わせる。現に、互いの腹に押しつぶされているクリスの性器は柔らかいままだ。
それでも、アリアスに犯されながらもゆるく抱き返してくる腕と、突き上げるたびにアリアスの胴を挟む内腿の肉が引きつる感覚に、まるでこの行為に共に溺れているような錯覚を与えられる。
アリアスは静かに笑う。
マンハッタンでの計画が頓挫し多くを失った。すべてを立て直すビジョンはまだ浮かばない。
そのうえ自分が作り出したゾンビの肉体に溺れるなぞ、どこまでも滑稽だ。
だが別にどうでもいい。どのみちもう、私とお前しかいないんだ
グレン・アリアス。三つ目の偽名。その名を持つものももう死んだのだ。遠い昔に過去を捨てすべてを失った身で、今更惜しいものなどない。
ないはずだった。
クリスが苦しげに息を吐く。深く穿たれて、僅かにこちらを押し返す抵抗を見せた。
「こちらを見ろ」
薄く涙の膜を張った深い色の瞳にアリアスが写っている。写してはいるが、その視線は宙を漂うように曖昧だ。
あの時痛いほど感じた殺意も憎しみもあたりまえだがそこにはなく、苦しい姿勢に眉を顰めながらもただアリアスを受け入れていた。
それに奇妙な満足感を覚えながらも、もしもの時のために残していたセーフハウスの僅かな設備でどこまでクリスのこの状態を保てるのか、今のアリアスはそのことばかりが気がかりになっている。
 
 
 
 
 
 
暗闇に僅かな光で浮かび上がる裸体。傷だらけで無骨な造りだが実用性を伴った美しさがある。
「服を着ろ」
未だ情事の気だるさを纏ったそれはいくら眺めていても飽きなかったが、いつまでもここに止まるわけにはいかなかい。
そう遅くなく、追っ手がくるだろう。それは確信していた。
あのクリス・レッドフィールドをリスクなく連れまわすことなどできるはずがない。思い当たる資金源をあたりながら体制を立て直しているが、他者と接触すればそれだげ足が付きやすくなる。居場所が特定されぬよう移動し続けなければ。
そうして、時間を稼ぎ…逃げ続けて、その先は?
ふと、月光が遮られてアリアスの顔に影が落ちた。窓の側で立ち上がったクリスの体に遮られたためだ。逆光で顔はよく見えないが、服を身につけ装備を整えたクリスは先ほどまでの乱れ様が嘘のように隙がない。
何もかも失ったアリアスの、唯一の戦利品。
…あてもなく、お前と逃げるのも、悪くはないのかもしれないな。
もう一度、手を伸ばそうとした瞬間、クリスのブーツのつま先が床を滑る音が鳴った。
閃光。
ガラスが割れる派手な音、それに続き周囲が煙に覆われる。
催涙弾か!
勘付かれたか、だとしても早すぎる。
腕で顔を庇いながらも周囲を見やる。投光器のまばゆい光と広範囲に渡り砕け散った窓。
その破片が全く自分に届いてないことで、窓際に立ったクリスが自分を庇ったことに気づいた。
白く視界を覆うガスのその先に、僅かに人の気配が見える。
アリアスが状況を把握するより早くクリスはその影を攻撃するべく走ったが、それも続く銃声に遮られた。
「馬鹿な、こいつもろとも殺す気か…!?」
ガスのせいで視界が上げられない。わずかに見える床の上、膝を撃ち抜かれたクリスが屈み込む姿の先に、纏い付く煙を割ってひとつの影が姿を現した。
「ああ」
影は簡潔にアリアスの声に答える。「お前の手に、渡るくらいならな」
先頭をきってきた、BSAAの兵隊にしてはあり得ない軽装の人影は、マスク越しにくぐもっていてもわかる程冷たい声で言った。
クリスは血だまりを作りながらもダメージを感じさせない動きで銃を抜いていたが、狙いが定まらない。
痛みを感じられないために、物理的に壊れた足をそうとは知らず動かそうとしてバランスが崩れている。
続々と突入する重装備の部隊の何人かを足止めはしたが、ついには包囲され、その首筋に何らかの注入器を叩きつけられているのが煙の隙間から見て取れた。
あっけない幕引きだった。
今のクリスならこれぐらいの襲撃など一人で収められただろう。アリアスを庇っていなければ。
「クリス…ッ」
無意識だった。思わずアリアスはその名に縋っていた。瞬間、ガスを吸い込み大きくむせ返る。
煙に粘膜を焼かれ蹲るアリアスを、影の人物はためらいなく蹴り上げた。
「随分、気安くなったもんだ」
忌々しげに、吐き捨てる。
外気に晒され少しずつ晴れはじめた煙の中、ゴーグルマスクの隙間から覗く金髪が見えた。
レオン・S・ケネディ。大統領子飼いのエージェントが何故まだBSAAと一緒にいる?
奴にもバイオテロにおいて浅からぬ因縁があるのは知っている。
しかし合衆国とBSAAは一応の友好関係を結んでいるものの、そこまでの協力体制にはないはずだ。
だが、この男のこの行動原理はそういう因縁がらみではないと、腑に落ちるものもアリアスにはあった。
仲間を助ける為などというには過剰すぎるギラギラとした殺意を、もはや隠そうともしないこの男も、
終わらない苦しみの中であの体に安らぎを得たのだろうか。
「情報提供があってね」
怒りを孕んだその声色。
クリスの燃えたぎるような激情とは違う、突き刺さる様な冷たい憎悪だ。
「女っていうのは、安易にコマに使うもんじゃあない」
ああ・・・生きていたのか。
復讐者は私たちだけではなかった。
父親をいいように使われ殺された、哀れな娘…
レオンの構える銃口の黒々とした穴を眺めて、この後に及んでアリアスは、おかしくてたまらないといった様に声を出して笑った。
「私も馬鹿なことを考えたものだ」
憎しみの果てに自分が破壊しようとしたものに、愚かにも救いを求めるなどと。
これは終わることのない連鎖だ。
怒りも憎しみも捨て正しい選択だけをできる人間がどこにいるというのか。
どいつもこいつも正義などと嘯いて、己が心の脅威を晴らそうと死に物狂いだ。
クリス・レッドフィールド。
何人がお前の為に死んで、お前はその報いのために何人を殺した?
そしてその血塗られた道を行く男のそばに、どうして傷ついた者達が寄り添おうとするのか。
今ならアリアスにも解るような気がした。
お前はずっと前からもう、その輪に囚われたままなんだな。
これからずっと、まだ、この先も。
「お前と無駄話などする義理はないが、最期に教えてやる」
そしてレオン・ケネディ。お前は
「クリスは俺の物だ」
彼をそこから救えるなどと、思い上がった哀れな男だ。
「死ね」
 
 
 
 
——
 
「クリス…クリス…ッ!」
必死で自分を呼ぶ声を、夢現つの中で聞きながらクリスは目覚めた。
「クリス…よかった…」
ぼんやりとした視界が次第に像を結んで行き、クリスの手を抱え込むように握り、覗き込んでくるレオンの顔をまず最初に認識した。
「お前が、俺を呼んだのか…?」
「ああ、ああ…呼んでたさ、ずっとな」
いまにも泣きだしそうな、崩れた笑顔で頷くレオンを見て、クリスはそうか…、と、納得した返事をするにはしたが、どこか違うような気もした。
「痛い所はないか?」
その…怪我はしてるが、深刻な後遺症が残るようなことはないって医者が…と、何か歯切れの悪い調子でレオンがいろいろと言っている。痛いかと言われればあちこち痛いのだが、彼らしくなくかなり動揺した落ち着きのない様子につい、くすりと笑うと、ようやくほっとしたようにレオンも笑った。
「まだつらいだろう…きつかったら喋らなくてもいいが…何があったか覚えているか?」
問われて、クリスはまだあまりよく回らない頭で今の自分の状況を省みる。束の間じっと黙ったかと思うと、はっとしたように声をあげた。
「レベッカ!」
跳ね起き用とすると足にズキリと鋭い痛みが走って、クリスは呻きとともに蹲った。レオンがあわててその体を優しく押しとどめ、ベッドへと戻す。
「大丈夫だ。レベッカは無事だ。彼女のおかげで、お前は戻ってこれたんだぞ」
落ち着かせようとゆっくりその両肩を撫でながら言う。「彼女は天才だな」
「遅くなって悪かった…お前を戻す治療薬がない状態で乗り込んでも、お前を助けられる保証がなかったから…」
実際、お前を攻撃してでも止めるしかなかった。早口で呟いたその言葉には、レオンの後悔と悔しさがにじみ出ている。クリスは、そっとその髪に触れた。「いいんだよ、レオン。お前が、助けてくれたんだな」
「覚えているのか…?」
恐々と、レオンは顔をあげてクリスを見る。
「ああ…いいや…覚えているような気だけはするんだが、なんていうか…さっきまで見ていた夢を思い出そうとして、でもその側から忘れて行って思い出せない。そんな感じだ」
その言葉を聞いて、レオンは一瞬ぎゅっと眉を寄せたが、その表情はすぐに払拭され、労わる様な微笑に変わった。
「そうか…大丈夫。今はとにかく休んでくれ。…あいつはもう、死んだんだ」
「レオン?」
「熱があるな。医者を呼んでくる」
らしくなく、くるくると変わる表情にクリスがあっけに取られているうちに、すぐに戻るから、動くなよ、と釘を刺して、レオンは病室を出て行った。
静まり返った病室で、クリスはレベッカを助けに行ったあとの記憶をもう一度思い出そうとするが、やはりそのあたりの記憶は曖昧で、つかもうとするとサラサラと指の間を溢れる砂のように、霧散して行くほかなかった。
その空白の時間が、なぜかひどく寂しいものに感じられた。
 
 
 
 
 
クリスの意識が戻る前に、レオンはその検査結果を聞いた。
ウィルスIIIとレベッカの血清から作られた治療薬はうまく作用しているようだ。
レオンが撃ち抜いた怪我も、後々リハビリの必要はあるがたちまちの問題はないとされた。
(非常事態ということは誰もが理解していたが、それでもBSAAの一部からは恨まれている)
そしてもうひとつ…これは医療関係者とレオンの間だけで処理することとなったが、
クリスの体には、性的暴行の痕跡があるということだった。
目が覚めたクリスは医者の診察を受け、少しレオンと話したあと、また眠ってしまった。
渾々と眠るクリスを見つめるレオンの脳裏に、アリアスの顔と、クリスの名を呼ぶ声が思い浮かぶ。
あの時、あの男がそんなことをしたと解っていれば、あんなに楽に死なせはしなかったものを。
そっと、クリスの頰に触れる。生えかけの髭のざらつきが愛おしい。
確かに取り戻し、クリスを奪った相手は死んだ。
けれども、間に合わなかった。想像したくもないのに、考えずにはいられない。
クリスはすべて忘れているのに、今すぐこの傷ついた体を暴きたて、すべて自分の痕跡で塗り替えたかった。
これはクリスのための怒りじゃない。レオン自身の身勝手な怒りだ。
もう復讐する相手もいないのに、アリアスのあの悟ったような最期の笑いが呪いのように、レオンの腹の奥にわだかまる、重く冷たい憎悪を掻き回している。