合鍵

レオンはクリスの部屋の合鍵を持っている。
いつだったか、アポもなくクリスを訪ねたとき、留守だったので気まぐれに、寒空の下長々と家主の帰りを待っていたら、数時間後に帰ってきて驚いたクリスが、突然押し掛けられただけにもかかわらず、すまなそうに差し出してきたものだ。
レオンは、恋愛になるかならないかのじれったい駆け引きを割りと楽しめるタイプであったが、この時、彼をさっさと落としてしまわなければと心に決めた。 多少期待していたとはいえ、こうも簡単に狼をテリトリーに招き入れてしまうこのお人好しのガードの緩さに危機を覚えたからだ。

 

この熊のような大男相手に、狼と称することは端から見れば滑稽かもしれない。しかし今までそっちの気が微塵もなかったレオンが、初対面で彼と握手を交わしたとき、レオンのモデルか俳優かと見まがうそつのない微笑を受け眩しそうに、少し頬を赤くして気後れぎみにはにかんだクリスを、可愛い男だなと思ってしまったのが最初の印象で、華々しい活躍とは裏腹の朴訥とした素直さや、不器用な優しさが、知れば知るほど好ましく、レオン自身も不思議と、不自然に思う間もなく惹かれていった。ようは、一度そういう対象になると受け入れてしまえば、彼のでかい図体も、同性である面倒くささも、すべて愛しく、愛すべきものとなってしまうのだ。

 

さて、そうと決めてからの話は早かった。何も特別なことはしていない。レオンはまるで女性に対するように優しく恭しく、格好をつけてクリスに接し、 ストレートに愛を告げて、 自分のものになってほしいと言った。 男同士であるという問題はちらと脳裏を掠めたものの、彼に小細工は無駄だと分かっていたし、彼が自分の外見を気に入ってることは感じ取れていたので、それも最大限に利用した。
ほぼほぼ勢いに流され気味ではあったが、そうしてクリスはまんまとレオンの手の内に転がり落ちてきた。周りの者たちがクリスの立派な経歴や肩書きや立場を気にして二の足を踏んでいるうちに、なんの駆引きもなく子供のように欲しがったレオンがあっさりと手に入れてしまった。甘い言葉も、我が儘な独占欲も、オブラートに包まずあけすけに伝えればクリスは可哀想なほどに動揺し、向けられる愛情に真摯に向き合いそれを返そうとしてくれるのだ。

きっとそれが自分でなくても、クリスはやはりそうやって真剣に受け止めるであろうことは想像に難く無い。

だからレオンは合鍵を渡されたあのときに、早急に彼を落とすと決めて心底よかったと思っている。

 

クリスが任務で長く空けていた部屋へ帰ると、空っぽだった冷蔵庫には軽く腹を満たせる程度の食料が補充されており、 出るときにはあわただしく乱されたままだったはずのベッドは綺麗にメイキングされ、無造作に散らかっていた生活用品もあるべき場所に戻されていた。
精神的にも肉体的にも疲労した家主を労るように整えられたその部屋に帰ると、 食事よりも、睡眠よりも先に、クリスはこの部屋のもうひとつの鍵の持ち主に無性に会いたくなってしまう。相手も忙しい身で、連絡がつかなくてもしょうがないがと自分に言い聞かせつつも電話をかけると数コールで、おかえり、と優しい声が帰ってきた。
クリスは部屋の整理の礼を言い、それから会いたいと言いそうになったが、それをこらえて、調子はどうだ、とあたりさわりない問いかけをした。すると電話の主――レオンは間髪入れずに、会いたい。行くから、そこにいて。と、声色は柔らかいが有無を言わせぬ言いぐさで畳み掛ける。思わずクリスがうん、と素直に頷くと、可愛い、愛してると恥ずかしげもなく言ってのけ、 通話は切れた。
クリスは照れ臭くも嬉しく思いながら、どうしてレオンはいつも欲しい言葉をくれるのだろうと不思議に思い、己を気遣う彼の気持ちに少しばかり、申し訳なく感じるのだ。

 

レオンがクリスの部屋へ駆けつけると、クリスはソファに横になっていた。待っている間に眠ってしまったのだろう。半分ほど減ったマグカップのコーヒーと、ソファに寝るには大きすぎて丸めた身体が微笑ましい。
そっと覆い被さって唇を寄せると、清い石鹸の香りがする。
浅い眠りから覚めたクリスが、身動ぎしてレオンを腕に迎え入れる。おかえり。ただいま。
ちょっと待て、と身を起こそうとするクリスを押さえつけ、身体洗って待っててくれてたのか?とレオンがささやくと、かっと全身が熱くなった。すぐそう言うことを言うなとクリスが咎めると、ごめん、とクスクス笑って、でも嬉しい、と、あまり人には見せない目尻を下げた子供っぽい笑顔が帰ってくる。この顔にクリスは弱い。
からかってないよ、俺だってほら、と熱を押し付けられて、びくり、とクリスが怖じ気づく。その仕種はいつもレオンの征服欲を掻き立てるのだが、クリスはいつまでもそんなことなぞ思いもよらず、慣れないままだ。

 

クリスは恐らく、いつも心地よい気遣いをくれるレオンに感謝と、尽くされることに少しの罪悪感も抱いているのだろう。実際は、それもレオンの手の内で、与えられているつもりでいるクリスの方こそが、まんまと自らその身を皿の上に差し出しているご馳走だということに気づいていない。

 

レオンはクリスの部屋の合鍵を持っている。
誰よりも尊い人をこの手に落とした、幸運の鍵だ。