これ以上は、もう

やめておけ、俺なんか。
自嘲を含んだ寂しげな目をしてクリスは言った。その諭すような口振りにどうしようもない苛立ちが募りレオンは、もう何も聞きたくないとばかりに震える唇で噛み付いた。
拒絶の言葉とは裏腹にクリスは、ただレオンのすることを許している。

 

 

おそらく無意識のうちにレオンは、この関係の上では自分のほうが優位であると思っていた。会えない時間は長く、逢瀬が叶うのはほんの僅かな間だけ。その貴重な時間をレオンは、毎回取りこぼさまいと、できる限り分かりやすく、側から見ればあからさまにクリスに対する好意を示してきたつもりだった。自分たちにあとどれだけ残されているかもわからない時間を無駄にしないように、しかし警戒され逃げ出されたりしないように、うまく距離を詰めてきたつもりだ。
最初は、拠り所だった。どこに行っても血と臓物に塗れたクソみたいなこの世界の中で、同じ辛酸を舐める、手放しに信じられる貴重な存在だった。
その存在に運命めいたものを感じるようになっていたのはいつからだったか。
この男の愛すべき実直さを体現するかのような鍛え抜かれた肉体に、色めいたものを感じるようになったのはいつからだったか。
自分がクリスに向ける好意と、クリスが自分に見せてれる好意の質が違うことなど承知の上で、それでもこのクリスという男が、どんな形であれ真摯に注がれる好意を無碍にできないこともまた、分かっていた。そうして、いつもクリスが柔らかい雰囲気で自分をテリトリーに招き入れて、体に触れることも、冗談めかした口説き文句も、動揺をにじませながらも照れたような可愛い反応で受け入れてくれるものだから、あとは自分の決定的な言葉と行動一つで、手に入れられるのではないかと思いこんでいた。
拒絶される怖さも無くはなかったが、この男が自分の手に入るのだという可能性の前には霞んで見えた。

 

 

お前が好きだ。抱きたいと思っている。
奇跡的に休日が重なり、いつのまにか二人で合う時には馴染みになったバーの片隅で、互いにほどよく酔いがまわり、友人としては近すぎる距離にも頓着がなくなった頃、レオンははっきりとそう告げた。
告げてしまえばレオンの思ったとおり、クリスは明らかな拒絶を見せることも、嫌悪感を露わにすることもしなかった。だが予想に反して、戸惑いや困惑の表情も見せなかった。
「…きっと、俺は、お前が思っているような人間じゃ無い」
少しの間レオンの告白の意味を考える間を置いてからクリスは言った。
謙遜のようにも、遠回しの否定のようにも聞こえた。
「俺がどれだけ考えて、こんなことを言っているのかなんて、お前にわかるのか?」
少しばかりムキになってレオンは問うた。クリスが目を合わそうとしないのが、癪に触った。
「わかるさ、たとえば」
小さなため息を一つついて、手元のグラスの水面を見つめながらクリスは
「俺が、他の男と寝ていたと言ったら?」
レオンの目を見ないまま、声のトーンを落として早口にクリスは言った。
胸にいやな軋みが走る。
そんなこと考えてもいなかった。当たり前に、自分がしようとしていることは棚に上げて、クリスに限ってそんな経験などないはずだと、高をくくっていた。
「そんなこと…」
関係ない、と、言おうとした。言えなかった。
冗談でこんなことを言う男でないことは解りきっている。
クリスのその一言から生み出された想像は、いとも簡単にレオンの胸中を打ちのめしていた。
例えばこれがクリスじゃない、誰か別の女性だったら、もしくは、クリスの相手がただ普通の女だったら。浅ましいかもしれないがそうだったら本当に自分は過去の関係など何も気にしなかっただろう。
これだけの男を、周りが放っておくはずないとは、思っている。けれども、だからといって簡単に手を出せるような相手でないことも、解っていた。元々そう言う趣向がないクリスが、身を委ねた男がいたとしたらその間には、誰にも踏み込めない2人だけの領域が、他のものには届かない何かがあったのだ。
いつのことだ。
自分たちが出会った後?自分が手をこまねいているうちに、この男を手中にした人間がいたのか?
そう言うものを彼との間に培えるのは、自分だけだと、自惚れていたのだ。今の今まで。
レオンはおもむろに椅子を引いて立ち上がった。「出よう」
「レオン?」
「こんなところでする話じゃない」
クリスは少し戸惑った様子を見せたが、黙ってレオンに従った。

 

店から数ブロック先、レオンの滞在ホテルの部屋につくまで二人は黙ったまま歩いた。
静かなエレベーターの中で、数時間前に浮ついた気分でここを降りた自分を思い出すともう、そのあとの行動を、我慢する気もおきなかったレオンは、部屋に入るなり自分の後ろでドアを締めたクリスをそのままそのドアに押し付け、感情のまま口付けた。ぶつけるようなキスは想像していた甘いものではなく、ただただ衝動だけがレオンを突き動かしている。
「っ!レオ、待て…」
「…昔のことか?」
乱暴なキスはたまらずクリスに引き剥がされたが、体全体でクリスをドアに縫い付けたまま、レオンが問う。
「何…?」
「それとも…今も」続いているのか。
イエスと答えられた時の、絶望はすぐそこにあったが、問わずにはいられなかった。
「…死んだよ」
今度はレオンの目を見て、感情の読めない表情でクリスは言った。
「俺が殺した」

 

 

経験があると言う割に、レオンが暴こうとするそこは固く閉ざされいて、それはもう随分と前のことだと伺えた。そんなことで少し溜飲が下がった自分が可笑しい。こんな状況で。
クリスはやめておけと言ったが、それ以上の抵抗もしなかった。
その真意は図りかねたがレオンはどうしても今、クリスに受け入れられねばならなかった。早く、この体に、クリスに残る痕跡を、自分で塗り替えてしまわなければ、気が済まなかった。
殺した、というのは言葉通りの意味ではないだろう。自分が率いた作戦上で殉職したのか、ウィルスの餌食になってやむを得ず手を下したか、あるいはその両方か。いずれにせよ、その男がクリスに遺したものは、計り知れない質量を持って、自分とクリスの間に横たわっている。
クリスの身体を見下ろしている。なだらかな曲線を描く胸に弄られ芯を持った乳首、筋肉の陰影を濃く浮かび上がらせる腹、上半身の分厚さの割に締まった腰のライン、僅かに反応を示し始めた性器、男の手でなすがままに割り開かれ震える白い内腿、そこかしこに散る痛々しくも妙に艶かしく感じる傷跡。目に映るそれらすべてが愛しいのに、めちゃくちゃに蹂躙したくなる。
この身体を隅から隅まで知っている者が自分以外にいたという事実。
与えられる刺激に耐えるかのように固く目を閉じているクリスが今、自分の体を辿るレオンの手に、その男との情事を思い出していたらと思うと、自分でもどうにもできないゾッとするような嗜虐心が、レオンを掻き立てた。
「…目を開けろ」
「う、あ」
ながば無理矢理押入ろうとするレオンにクリスが呻く。優しくしたかった。そのはずだった。しかし、強引に貪るような酷い行為に、後ろめたい興奮を覚えている自分が確かにいる。
シーツを握りしめる手を解いて自分の首に回させ、クリスの顔を覗き込むようにしてもう一度言う。
「俺を見ろ、クリス」
薄っすらと開かれた瞳はレオンを捉えていたが、満足するどころか余計に飢えが増すような心地がする。
もっとだ、もっと欲しい。
「…っ!あ、やめ、待っ…レオン…ッ」
クリスの身体が跳ねる。首に回させた手は解けてレオンを抑えようと動いたが、構わず穿った。
いつの間にか罪悪感は形を潜めている。蹂躙する自分の行為を、クリスがなす術もなく受け入れている。そうだ、クリスは俺を受け入れた。理不尽な侵入を許し、その腕がレオンの背に縋りつく。潜り込んだそこは熱くレオンを締め付け、突く度に戦慄く肉が合わせた肌を通して伝わってくる。
それは目眩がするような快感で、レオンを支配した。

 

 

腕の中でみじろぐ身体が、覚醒する気配を告げる。部屋はまだ薄暗い。
「…眠ってるのか?」
小さく問いかけてくる声が聞こえたが、レオンは目を閉じたまま応えない。しばらくしてクリスは、体に回る腕をそっとどかし起きあがろうとしたが、それに抵抗して絡みつくレオンの体にその機会を失った。
「どこにいく…」
「起きてたのか」
「いかないで…ここにいてくれ」
つい先程まで、人の体を好き勝手に蹂躙していたとは思えない、縋り付く声と腕。
クリスは諦めたのか、またもぞもぞと元の位置に戻った。それだけで、この行為が許されていることで、レオンにどれだけの安堵を与えているかクリスは知らない。
やめておけと、クリスは言った。これきりにするつもりなのだろうか。だとしてもレオンはもう、これを知る前には戻れない。言い知れない不安はあった。クリスを囚える過去を振り払いたかった。だが何かを聞き出そうとして完全にクリスが背を向けてしまうのが怖い。熱が去ったあと、それを失う恐怖がレオンを苛んでいる。
「…俺は、お前に後悔させるかもしれない」
ふいにクリスが呟いた。後悔。この不安は後悔なのだろうか。手に入れる前よりも、失うことがこんなにも怖いこれは。けれども
「俺は後悔なんてしてない。お前が後悔してたとしても、もう俺からは離してやれない」
どうして抵抗しなかった。恐る恐る、レオンは訊ねた。うつむいたクリスの顔は見えない。
「お前を…失いたくないからだ」
何?と思わず聞き返したレオンに、やめておけと言ったときと同じようにクリスは薄く笑った。
言っただろう。お前が思っているようなできた人間じゃないんだ。
「俺はお前との時間が好きだよ。たぶんお前が思ってる以上にな。…でも、俺はお前と同じ気持ちを返せる自信がない」
前も、そうだったんだ。
「おれができることなら、応えてやりたかった。けど結局、そいつが望むものは返せないまま、そいつは死んでしまった…」
レオンの知り得ない、クリスの過去が、きつくレオンの心臓を握り締める。
「矛盾してるだろう。失いたくないのに、俺なんかに執着してほしくないと思ってる」
いままで、クリスはどれだけのものを失ってきただろう。記録の上の数字をたどるのは容易い。だが、そのひとつひとつを背負う重さはどれほどのものか。どれだけ修羅場をくぐってひとり生き残ったことを賞賛されても、この男が慣れるはずなどないのだ。

ああ、それなのに。

俺はまだ、自分がどうすればクリスの唯一になれるかを考えている。
永遠にこいつを縛る過去の死より、勝る術はないかと、考えてしまう。
レオンはクリスの目を見た。暗がりでは黒くも見える、深い青。引き寄せられるように口づけた。少し伸びた髭のざらつく感触と、その間にある少しかさついた柔い唇が、クリスとキスをしている実感を鮮明に感じられて好きだ。
「…お前が思っているような人間じゃないのは、俺の方だ」
当のレオン自身も知らなかった、暗い欲望。クリスが火をつけた。
「俺の方だよ…クリス」
「レオン…?」
クリスが失ったその男は、後悔なんてしただろうか?誰をも大切だと、守ろうとしながら、誰のものにもならないこいつを、その一時は自分のものにできたと思えたはずだ。自分の欲望を受け入れさせて、満たされただろう。そのはずだ。今だってしぶとく、こいつの心にしがみついて離れない。
だが、それもいつか終る。
俺のものだ。今は…これからは。
その傷口に、つけこむ術すら、レオンは手に入れたのだ。
「あ…っ、レオン、今日は、もう」
「愛してる、クリス。愛してる…」
俺と同じじゃなくてもいい、罪悪感でも、同情でも、なんでもいい。
お前をがんじがらめにできるのなら、なんだって。
「俺から離れて行かないでくれ…」
縋り付くレオンを、おずおずとクリスが抱き返す。それでいい。
クリスが次にまた何かを亡くしたとき、思い出すのが自分のことだと良い。自分を失う怖さに、怯えてくれればいい。
それがクリスの求めている自分ではないと解っていても、引き返すことはできなかった。

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