しあわせな恋

目覚めた時にはレオンはもういなかった。
いや、本当は、レオンが出ていくまで目覚めていないフリをしていた。
予定していた時間ギリギリまで、名残惜しく部屋に留まる気配を感じながら、頭の中でズキズキと響く自分の鼓動を聞きながらクリスは目を閉じていた。
一人になると安堵と共に罪悪感が押し寄せてくる。
レオンを好きだった。自分を愛していると、その美しい顔に切羽詰まった表情を貼り付けて必死に告げてくれたかつての友人に、精一杯報いたいと思っている。
思っているはずだった。
今は彼を怖いと感じる。…そう感じてしまう自分の感情こそ怖かった。
埋まらない温度差に気づいたのはいつ頃だっただろう。息苦しいほどの熱量を注がれて戸惑う自分は、以前のように彼を愛せなくなって居るのではないか…そんな考えがよぎるたびに、レオンからの無茶な欲求を跳ね除ける勇気がなくなってゆくのだ。
昨夜告げた譲歩の要求は、これ以上彼を負担だと考えたくない、クリスなりの精一杯の抵抗だった。
少し強引なところがあるとは思っていたものの、それでも自分に甘えているのだろう彼のわがままを以前は微笑ましく受け止めていた。けれども、昨夜のあれは違う。
レオンは自分をどうしたいのだろう。
人に優しいはずの彼の、ともすれば自分に関わる他の者へと向けられそうな敵意は何だ。
それに半ば合意でない行為は、おおよそクリスの思う、愛して居る者へ対する行為ではない。
けれどもレオンはクリスを愛しているという。愛しているからそうなるのだと…。
それを理解できない自分は彼を愛していないのだろうか。
そこまで、自分は彼を不安にさせているのだろうか…

 

翌日、身体の底にどことなく蟠る倦怠感をうまく無視できないまま、クリスは部隊の演習に立ち会っていた。
今日が訓練でよかった。
広いフィールドで青空の下、重々しい装備をつけて立ち回っていると、夜に二人で過ごす部屋の、淫猥な雰囲気で満ちた、世界から遮断されたあの空間も夢だったかのように遠く、そしてとてもやましいことのように感じられた。
やはり、少しの間離れるのもいいかもしれない。
それもわざわざ馬鹿正直にそう告げなくとも、なかなか逢瀬の機会を作れないのが二人の常であり、特に不自然なことでもないだろう。
少しだけ、少しでいい。
うやむやにして結論を先延ばしにしているわけだが、それでも、クリスには感情を整理する時間が欲しかった。
レオンを愛している。遠ざけたいわけじゃない。
クリスだとて、レオンのまっすぐな愛情に救われているからこそ、彼に応えたのだ。
ただここ最近、距離が近すぎて少しわからなくなっているだけだ…。
もしかしたらレオンもそうなのではないか。このどこか不自然な関係性を持て余しているのではないだろうか。
己の取るべき行動を決めたら少し気が楽になってクリスは、鬱々とした思考を手放し目前の仕事に向き直った。
少し離れて、そうして冷静なったら、きっとまた良い関係になれる。

 

恋人の寝顔をレオンは眺めている。
少々無理を強いたとは思うがそれに対して悪いことをしたとは、正直あまり思っていない。
クリスが元々セックスがあまり好きでないことはレオンも承知していた。
正確には、”男同士で受け身になるセックス”が、だ。
互いにヘテロセクシャルで、レオンだとてクリスが男を受け入れがたいと感じる気持ちは分からないでもない。
けれど、性自認がどうであれクリスは自分の想いに答えてくれたのだ。それならばクリスを好きで、愛しているから同性であるその逞しい肉体ですら愛おしく、どうしようもなく欲しくなってしまう気持ちも分かるだろうというのが、レオンの言い分だ。
けれども、クリスの方はそうではなかった。
それもレオンは知っている。
もちろん、それだけで彼の愛情を測ったりはしていない。けれど彼のように、側にいて触れ合うだけで満足するなんて段階はとうに超えてしまった。
穏やかな関係を望むクリスに歩調を合わせることを請われても、それだけで満たされるにはレオンの感情は大きすぎた。そのまま放置すれば、どうなってしまうのか解らない程。
激情のまま、穏やかに微笑む彼の顔を歪ませても、その体と思いやりを、貪る以外に抑える術がわからない。
そんな想いが募り募って今では、何か言いたそうな、ともすればつらそうなクリスが、逆らいきれず快楽に翻弄される様に暗い喜びすら感じるようになっていた。
否定の言葉とは裏腹にすっかり抱かれることを覚えてしまったクリスの肌は酷く甘く、触れ合う箇所は誘うように吸い付き、レオンを受け入れる。
そうなるとあとはもう必死で己にすがりつくしかできなくなるクリスが、されるがままに腕の中で乱れる恋人がレオンのどこか乾いた部分を、他では得られない幸福感で満たしてくれる。
張り詰めた日常の中で唯一、変え難いこの感覚を一度知ってしまうとあとはもう、どう繫ぎ止めれば失わずに済むかということしか考えられなくなる。
ちいさく身じろぎして、ふとクリスが目を覚ました。ぼんやりとした視線が、不思議そうにレオンを捉える。
「目が覚めたか?よく眠ってたね」
ここのところ忙しかったみたいだしな、と優しい声色を響かせて髪を撫でるレオンを、愕然とした表情でクリスは見た。
「ここ、は。俺は、どうして…」
狼狽するクリスをさも愛しげに見つめるその表情は、この状況でなければ見る者に安心を与えただろう。
だが、クリスにはこの場所に来た記憶も、ここで眠りについた記憶もなかった。
「こうでもしないと、最近なかなか捕まらないんだもんな」
必死に眠りに落ちる前の記憶を呼び戻そうとするクリスの思考を遮るようにレオンが語りかける。そんなに忙しかったのか?それとも
「俺を避けてたのか?」
窓からの光が逆光になり、表情の読めないレオンの、静かな声色。
そんなわけないよな、と本気なのか皮肉なのかわからない、低く穏やかなトーンに、クリスの背中がぞくりと粟立った。
とにかく体勢を整えようとするが、起き上がり立とうと動いたクリスをレオンが思いの外強い力で捕まえる。
「何処にいくんだ?折角久しぶりに会えたのに。何ヶ月ぶりだったかな…」
「れ、レオン、離して、くれ」
「どうした、クリス。もしかして、前に会った時のこと、まだ怒ってるのか?」
悪かったよ、お前があんまり可愛いかったからさ…クスクスと、レオンが笑う。幸せそうに。
クリスは混乱しつつもレオンを刺激しないように、ゆっくり視線を動かして部屋の様子を伺った。
クリスやレオンの自宅ではない。フラットやホテルの一室ではなく、一軒家のようだ。
窓の外は明るい。自分の最後の記憶は…
そうだ、その日はワクチンの実験成果の報告を聞きにレベッカの大学へと行った、その帰りだ。確か同日に国の機関からの訪問もあると聴き、まさかレオンと鉢合わせなんてことにならないかと危惧したが、訪れるのは専門の研究員とのことでほっと胸をなでおろした…。
その後駐車場で車のキーを手に取ったところまで覚えている。そして、….そして?
「だからって、逃げなくてもいいじゃないか。恋人同士なのにさ」
落ち着いた声色に不穏な色が混じり始める。
クリスはとっさに自分を抑えつけるレオンの手を取った。
「す、すまなかった…少し、ばつが悪かっただけで…」
力が緩んだレオンの腕の中へ、クリスが甘えるようにすり寄った。すると、みるみるうちに険しさを帯びかけたレオンの表情が崩れてゆく。
「何だ。クリスが気にすることなんて、なにもないのに」
俺に会いたかった?とレオンが問うと、その胸に顔を埋めるようにクリスがこくりと頷いた。
かわいい、クリス、あいしてる。
相好を崩してクリスを抱きしめるレオンの腕の中で、冷水を浴びせられたような気分でクリスは俯いている。
自分が、一言、不用意な言葉を吐くだけで、レオンの逆鱗を逆撫でてしまうこと、それを確信した瞬間。
怖い。
レオンが。この強く美しい男を簡単に変えてしまえる、自分が。
「お前が側にいてくれれば、俺は幸せなんだ」
その言葉は、ゆっくりとこちらへ体を預けてくるレオンの体重よりも重く、重くクリスにのし掛かった。

 

続?
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