夜の終わりまで2

(前:夜の終わりまで の続きです)

デバイスの電源は落としていた。こんな時に呼び出しなどかかったら興醒めどころの話じゃない…昨夜は仕事のことなどどうでも良いと本気で思っていた。
久しぶりの、アラームに邪魔をされない目覚めだった。
見覚えの薄い寝室の様相にハッとして、慌てて手探りで枕元を探す動作をすると「これか?」と低い声とともに、降ってきた端末が枕の上でぽすんと柔らかい音をたてた。
「よく寝てたから…起こしたほうが良かったか?」
クリスがいた。昨夜脱がした衣服が何事もなかったかのように身に纏われているのに落胆しないわけではなかったが、先に起きてそのまま自分を待っていてくれたことに少なからず感動しながら、レオンは探していた端末の通知も時間もろくに確認せずに「問題ない」と答えた。
「時間があるならゆっくりしてていいぞ。俺はもう出るが…」
「もしかして、おれが起きるのを待っててくれたのか?」
「ん?…まぁ…昨日の今日で、顔も見ずに帰るのも…どうかと思って…」
何か期待のこもったレオンの問いかけに、少し目線を外しだんだんと照れくさそうに言い淀むクリス。チェックアウトは11時までだからなとそそくさと立ち去ろうとしたが、裸のままベッドから出てきたレオンの腕がそれを阻んだ。
「おれがあんたの役に立てば、また会えるのか」
利用しているだけだと言うなら、もっとビジネスライクにしていれば良いのに、それができない男なのだ。きっと相手がレオンでなくてもそうなのだろう。だがそれが、あわよくばと思っている相手の執着を煽る結果になることをこの男はわかっているのだろうか。
ともかく、これきりにはしたくない。そう思っていることを、クリスに知っておいて欲しい。
「レオン、俺は…」
「昨日聞いた。身の程はわかってる。でも思うのは勝手だろ」
クリスはしばし逡巡した後、後ろから回されたレオンの腕をそっと解いた。逃げられる気配がなかったので、レオンもされるがままにしている。
正面に向き直ったクリスが今度はレオンの目をしっかりと見た。
「目的を、見失うなよ、レオン・ケネディ。お前は俺なんかにかまけてて良い男じゃないはずだ」
クリスがここで、明確に線引きしようとしているのがわかった。それなりのショックは受けたが、レオンも怯まない。
「俺たちの目的は同じだと、あんたが言った。国は関係ないと。なら何故一緒に歩むことができない?あんたはこれからもずっと1人で戦うつもりなのか」
「1人じゃない。ピアーズもケイも、他の仲間達もいる」
納得のいかないまま詰め寄るレオンを制するように、クリスは言葉を続ける。
「1人じゃなかった、ずっと、仲間たちがいた。…犠牲になった奴らはみんな、俺を支えてくれていた。俺を信じて、俺を生かした。だから、俺は、自分こそが正しいという顔をして、進むしかないんだ」
そこまで言って、クリスはハッと口を噤み、その言葉の意味を、レオンが噛み砕く前に背を向けた。
「…お前は俺が居なくても戦える」
「クリス!」
「話しすぎた。もう行く。…お前と敵同士にならない事を祈ってるよ」
表情は見えない。だが優しい声色だった。そのまま振り返らずにクリスは出ていく。思わず伸ばした手を所在なさげに下ろしたレオンの、晒したままの肌が急に寒さを感じている。

 

 

「あのさァ、相談する相手間違ってるよなぁ?」
夜の賑わいにはまだ少し早い、例のバーのカウンターで、ケイがレオンに捕まっていた。俺はもう中立の立場じゃないんだぜ?とため息をつかれてもレオンは気にしない。
「引き合わせたのはお前だろ」
「ボスに言われたんじゃなきゃ絶対会わせなかったね」
「クリスが俺を気に入りそうだったから?」
「お前がボスを気に入りそうだったからだよ!」
実際、前から時々目で追っかけてたろ。
図星をつかれたレオンだがさして気にする様子もなく、むしろそんなところまで見てるんだなと妙に感心していた。
「まあ分かってるなら、お前相手にしらばっくれる必要もないしな」
「おい、確かにお前はお得意様だったが、橋渡しなんてしないぞ。ボスが会わないって言うなら会わせないのが俺の仕事だし…お前のために殺されるのも嫌だ」
「殺されるって誰に」
質問には答えず、ケイがついとレオンの後ろへ目線を動かした。
それに気づいたレオンが振り返るより先に「ずいぶん仲良くなったんだなケイナイン」と皮肉っぽい声が聞こえて、質問の答えをきくまでもなく、レオンは内心で舌打ちをした。
「ケネディ、顔貸せ」
声の主…眉間にしわを寄せてめんどくさそうに顎で指し図するピアーズは、レオンに声をかけるのが心底不本意だと顔に書いてあった。
「ここじゃ駄目なのか」
「スコット、言う通りにしたほうがいい」
ただ黙って言うことを聞くのが癪だっただけだが、真面目な顔で横から口を挟んだケイに軽く肩をすくめて、踵を返したピアーズに黙って従った。

 

 

「お前、ヘマしたんじゃないのか」
「なんだって?」
店から出てしばらく歩いた先で、歩みを止めないままピアーズがおもむろに口を開いた。夜の路地を行き交う人々や車の乱雑なノイズで聞き取りやすいとは言い難い。おそらくそれを狙って話している。
「別のやつが探りを入れにきてる」
つけられてる。ケイは気づいてたぞ、と重ねて言われ、クリスとのことで無意識に浮ついていたのだろうか、何も気づかなかったレオンには寝耳に水でバツが悪い。
「…違う組織の人間じゃないのか」
「可能性もないわけじゃないが、今は考えにくい。お前とこちらの関係がバレてないにしても、成果が上がらないことに焦れて人を増やしたのかもしれない」
何にせよ、あそこはもう使えない。入り浸ってもあの人は来ないぞ。と、淡々と告げるピアーズの言葉には、意外にもそれほど批難の色はこもっていなかった。
「責めないんだな」
「俺はあの人ほどお前に期待してないからな」
スタスタと歩きながら話していたピアーズがそこでふと立ち止まり、半歩後ろを歩いていたレオンを振り返る「ただの役立たずなら別にいい。だが、あの人の害になるようなら、消えてもらう」
レオンの目を真っ直ぐ睨んだピアーズの、左の瞳孔。一瞬で逸らされたが蛇の目のように縦に細くなっているのを確かに見た。
ケイの反応からしても、相当の殺傷能力の持ち主なのだろう。その力が未知の、それも人間が作った力ならもう禁忌に等しい。
痕跡を残さずレオンを消すこともできるのかもしれない。当局が最も恐れているもののひとつ…レオンが任務を遂行するなら、いち早く報告しなければならない存在である。
そんな危ういものが、クリスへの忠誠心というたった一本の命綱だけで野放しになっている。
あの時、去り際にクリスがこぼした言葉を思い出す。もう、彼には迷うことすら許されていないのだ。
「…協力し合うことは本当に不可能なんだろうか」
「なんだと?」
歩きだそうとしたピアーズの足が再び止まる。
「やり方が違っても目指すところは同じはずだ。俺たちが牽制し合っている裏で今も悪党どもが好き勝手やってる。敵を見誤っているこちらも問題だが、このままじゃ・・・」
彼への負担は大きくなるばかりじゃないのか。
「お前がその問題を正せるって?」
「・・・すぐには無理だ、でも」
ピアースは、それ以上は聞くに耐えないというふうにため息をつく。
「お前は、あの人を助けられると思っている。後ろ暗いことには手を付けず、正しく行動すれば、いずれ報われると?
…反吐が出るよ。まるで昔の俺みたいだ」
ほんの一瞬、ピアーズの表情が怒気で歪んだように見えたが、すぐに興味をなくしたようにその表情は消え、逸らされた。
「やっぱりお前は期待はずれだ。後ろのお仲間を引き連れたままあの人に近づくなよ。今度こそ容赦しない」
その後は立ち尽くすレオンを1度も見ないまま、雑踏の中に紛れていった。

 

 

片手にデータパッドを抱えたケイナインは支給されているカードキーでジムの扉を開けた。
黒いカードには傘を模した青色のロゴが描かれている。
この時間ジムを使用しているのはクリスひとりで、彼のたてる器具の音と控えめな息づかいだけを聞きながら、ケイナインはすこし離れた位置で黙ってセットが終わるのを待つ。

自分たちは決まった拠点や研究施設といったものは持っていない。様々な経歴や事情を抱えた者たちの集まりなので、各々が持っている伝手を頼ったり、昔所属していた場所での仲間たちに協力を仰げることもある。または利害の一致で得られたスポンサーから物資や場所の提供を受けたり、そういう積み重ねで成り立っている。
そして大きい繋がりの中心には大抵クリスの存在があるので、彼を失ったらたちまちケイナイン達は何をするにも立ち行かなくなってしまうだろう。
そういうこともあり、もう危険な前線からは退いてもいいのではないかと思うのだが、本人は「足手纏いになる前には辞めるさ」と言いつつ、今もこうして鍛錬を欠かさない。
実際、彼のいるいないでは現場の士気が段違いなのだ。
ケイナインはクリスを見る。いつもなら必要以上に眺めてると横から即座に殺気のこもった視線が飛んでくるのだが、今はその心配もない。
年齢にそぐわない程、見事に鍛え上げられた体には惚れ惚れする。
引き締まった筋肉が波打つように動く。見せかけではない、殺し合いのために作られた肉体。張り詰めた皮膚の上を縦横無尽に走る傷跡は生々しく、そこを伝って流れ落ちる汗が、妙に色気を孕んでいる。
⋯レオンはこの肌に触れたのか。
「何か問題でもあったか?」
ぼんやりしているとノルマを終えたらしいクリスのほうから先に声をかけられてしまった。
難しい顔をしてたが、どうかしたかと聞かれて、ケイナインは曖昧に笑って誤魔化すしかない。
「なんでもない。予定通りだよボス。邪魔がはいりそうなのも、予定通り」
データパッドを叩いて立ち上げ、クリスに手渡す。
「このサンプルが必要なら、急いだほうがいい。政府から睨まれてる事に感づいて国外に持ち逃げようとしてる。当局はその前に消すつもりだ。証拠も、容疑者も諸共ね」
「手っ取り早く隠滅か。相変わらずだな」
「まぁ潰してくれるっていうんならそっちは任せといていんじゃないか?」
「当面の問題だけは片付くだろうが…」
ケイナインに渡された資料の画面をみながらクリスはふっ、と短いため息をつく。
「なぜ起こったのが、誰が始めたのか、曖昧なまま終わらそうとすれば、どこかに遺恨が残る。それがくすぶり続けて結局また火種になる⋯繰り返しだ」
まるでそれが自分のせいだとでも言いたげな表情でクリスは語る。まだ新参者の自分には、なにが彼をここまで追い詰めるのかわからない。
それでもケイナインは、この新しい自分のボスの望みを叶えるために命をかけてもいいと思ってここにいる。
「⋯レオンに協力させたら?」
すこし棘のある言い方になってしまったのは、やはり納得がいってなかったせいか。
ケイはレオンの経歴も人となりもそれなりに知っている。パンデミックを生き延びたあと、半ば口封じも込みで国に召し抱えられ、少々皮肉っぽい性格になってしまったようだが、まっとうな正義感を持った良い奴だという印象だった。
レオンにはああ言ったが、本当はレオンの言った通り、クリスが好みそうな種類の人間だと思っていた。
けれどそれだけだ。エージェントとして有能でも、クリスが身を差し出してまで引き込むほどの立場にあるとは思えなかったし、下手に信念を持っているだけに雇元を欺かせるには帰属意識が高過ぎる。
咎めるようなケイナインの声色を察したのかクリスは、困ったように眉を下げて、「ケイ…」と呼びかけてきた。ケイナインは、やめてくれ、と思った。この人にこういう顔をされると弱い。
「…もしかしてボス、そんなつもりはなかったとか、言わないよな?」
「う…」
何か、様子がおかしい。
部下に明け透けに話すのは気が引けるのか、ケイナインが聞き出そうとしてもしばらく歯切れが悪かったが、本当に困っていたらしく、意を決してクリスが打ち明けたこと曰く、レオンとそういう関係になるのは本当に想定外だったらしい。
政府側とのパイプはいずれ必要だと思っていたが、信じるに足る人物との繋がりがない。レオンは若くまだキャリアも浅いが、政治の様々な思惑に晒される前にこちらの理解を得られれば、いずれ彼が対バイオテロ組織の中心人物になったとき、双方の実りになると思って声をかけた。こちらをまず信用してもらうためにある程度の要望は飲むつもりでいたが…
「まさか、本気になるとは思わないじゃないか…」
「そのセリフだけ聞くとなんかすごい悪い男みたいだなボス」
「笑えない…20も下の若者を陥れたみたいで気が引ける…」
要は、レオンにあげた「報酬」が思っていたよりも効果的で、本人もどう扱っていいのか困っているらしい。
ケイナインは2人の温度差を知って少し留飲が下がり、そんな自分に苦笑した。
当のレオンは気にしてないどころかあわよくばどうにかして二度目を狙っているわけで、クリスが気に病むことはないと思うがそれは黙っておく。
「でもあっち側との繋がりなんて、今までは避けてたんじゃ?」
「今の状況じゃあまだ、手の内を明かすのは危険だと思うが…いずれ避けられない時がくる。それに、俺が現役のうちにとは限らない」
無事に引退まで生きてるかどうかもわからないしな。とクリスは言う。
彼はこうやって時々、自分がいなくなった時の話をする。最近は、自分がいなくなったあと残された者たちのためにこういう「保険」を作ろうとしている節がある。
それに関して具体的な話をされるのが嫌で、ケイナインは「作戦の前に縁起でもないこと言わないでくれよ〜」とわざとおどけて返した。
クリスが準備した通りに事が進むかは疑問だ。順当にいけばピアーズあたりに後を継がせたいのだろう。彼が「キャリア」になる前はどうだったかは知らないが、今のピアーズは最早クリスこそが生きる理由で、それがなくなった後にどういう行動に出るのか、あまり良い想像はできなかった。
ケイナインはこの気苦労の多い自分のボスの今後を憂い、せめて自分だけは、彼の意図を汲んだ振舞いをしてやろうと決めている。彼に必要な人間になれれば、向こうから離れることはない。自分はそれでいいのだ。

 

 

 

件の作戦は、クリスが指揮を執り、ピアーズを含む少人数で決行された。
標的は、ターゲットが保管しているウィルスの実験データとサンプルの確保。
実験施設の防衛とは別に、これを完全に潰そうとする政府のエージェントが介入してくる――その可能性は、事前にケイナインが予測していた通りだった。

聞き慣れた警告音とカウントダウンの音声が鳴り響く。目的のものが保管されている場所へと続く通路は隔壁ですでに閉ざされていた。先に到達したエージェントが物証を消し去るためにスイッチを押し、今頃脱出を図っているだろう。
本来なら、それよりも早く到達するはずだった。しかし施設側が抵抗のために解き放った実験体のB.O.Wに足止めされ、わずかな遅れが致命的となった。
「俺が行きましょうか」
ピアーズは低く言った。声に乱れはないが、視線は隔壁から離れない。彼の能力なら、隔壁を突破し、間にいる実験体を排除することも可能だ。
「いや、完全に破壊が完了するまで、この区画のログは残る。ここで強行すれば、こちらの介入を確実に悟られる」
「……了解です」
ピアーズは一瞬だけ目を伏せ、すぐに顔を上げた。警告音とカウントダウンが、冷静さを削り取ろうとしてくる。
「向こうが撤退するまで待ちますか」
「記録が止まった瞬間に踏み込む。それまでは動かない」
「間に合うかどうかは……」
「ギリギリだ」
クリスは短く言った。
「だが、最善はそれしかない。ここで焦れば、厄介なことになる」
ピアーズは拳を軽く握り、すぐに力を抜いた。
「了解しました。タイミングは俺が見ます」
クリスはわずかにうなずいた。
「頼む」

 

「その必要はない」
第三者の声が、隔壁の反対側から静かに響いた。
クリスとピアーズが同時に振り向いた。
国のエージェントーー可能性はあった。だが、この作戦に関与しているとは、少なくともクリスは想定していなかった。
通路の影から姿を現したのは、やはりレオンだった。
「……レオン?」
ピアーズが低く名を呼ぶ。声には警戒が混じる。
レオンは視線をクリスに向けている。その一瞬の間に、安堵にも似た色が浮かぶ。
それを察したピアーズがわずかに眉をひそめた。
レオンは黙って手にした小型ケースを掲げた。耐衝撃仕様のコンテナのようだ。
中身が何かを悟り、クリスの目がわずかに細まる。
「それを……持っているのか」
「想定外だっただろ」
レオンは軽く言った。
「この作戦に加わっているとは思っていなかった」
「だからこそだ」
レオンは視線を逸らさなかった。
「仲間は撒いた。俺がB.O.Wの囮になるふりをしてな。証拠隠滅のスイッチを押して、あいつらは晴れて任務完了だ」
クリスの後ろでピアーズの表情が強張る。
レオンが独断でした行動を理解した瞬間、胸の奥に走ったのは不快感だった。
「俺の目的は、最初からこれだ」
レオンはケースに目を落とし、そして再びクリスを見る。
「あんたが探してるものを、確実に生きた形で持ち出す」
クリスは一歩前に出た。
驚きはあった。だが、それを態度に出すことはない。
「それを俺に渡せば、お前は二重スパイになる」
クリスの声は低く、感情の起伏を感じさせなかった。
だが、その言葉を選ぶ間に、彼の脳裏をよぎったものがある。
――わかっている。
レオンが、個人的な感情を判断に混ぜていることを。
だからこそ、ここで受け取るわけにはいかない。
この繋がりを、利用できればと思っていた。だがそれはもっと先の話で、政府にとっていつでも切り捨てられる一介のエージェントであるレオンに、自分のために危ない橋を渡らせる気はなかった。
「解っているのか。正しいかどうかじゃない。仲間を…国を裏切ると言うことだ」
クリスはあえて言葉を重ねる。突き放すように、しかし正確に。
「それでも渡すのかと聞いている」
レオンは一瞬、目を伏せた。
その沈黙に、答えが含まれていることを、クリスは理解していた。
それでも来た、ということか。
だからなおさら、情を挟む余地はない。
「俺は、お前の覚悟を試しているわけじゃない」
クリスの視線が鋭くなる。
「感情で動く人間の手から、危険なものを受け取るつもりもない」
ピアーズはそのやり取りを黙って見ていた。
クリスの態度が、あくまでレオンを遠ざけようとしているのは理解できる。
それでも、レオンの視線が一方的に向けられているのを見るのは、不快だった。
「それでも渡すなら――」
クリスは手を差し出さない。
「選択は一度きりだ、レオン」
クリスはそう告げても、なお手を差し出さなかった。

レオンはケースを見下ろし、次にクリスを見た。
その視線がわずかに揺れた。手にしたケースを握り直す。
力を込め直したようにも、ためらったようにも見える、曖昧な動きだった。
レオンは一歩、前に出た。

次の瞬間、膝が床に打ちつけられた。

鈍い音と同時に、レオンの身体が大きく揺れる。
壁に手をつこうとしたが、力が入らず、そのまま崩れ落ちた。
「おい!」
ピアーズが駆け寄る。
レザージャケットの内側から、抑えきれなかった血が滲み出していた。
見えない位置に隠されていた重傷。
それを悟った瞬間、クリスの表情がわずかに硬くなる。
レオンは床に片手をついたまま、なおも身体を起こそうとした。ケースを持つ腕が、ほんのわずかに持ち上がる。差し出そうとしたのか。それとも
判断がつく前に、力が抜けた。
ケースは彼の手から滑り落ち、レオンは声を出せない。
呼吸は浅く、視線だけが一瞬、クリスを睨んだ。
次の瞬間、レオンの意識は途切れる。
沈黙が落ちた。
クリスはゆっくりとケースを拾い上げ、レオンに背を向けないまま言った。
「……ピアーズ。負傷者を確保する」
声は変わらず、この場の指揮官のものだった。
ケースを持つ指だけが、かすかに震えている。

 

 

 

目を開けた瞬間、鼻を突いたのは消毒薬の匂いだった。
白い天井。安物のカーテン。
自分達の拠点の医療区画でも、どこかの秘密拠点でもない。
(……普通の病院、か)
身体を起こそうとして、腹の奥に鈍い痛みが走る。
反射的に息を殺した。
動かせない。思っていた以上に、身体が言うことを聞かなかった。
静かな焦りが、胸の内側に溜まっていく。
「お、起きたか」
気の抜けた声。
視線を向けると、ケイナインが壁際にもたれて立っていた。地味な私服姿で、紙袋を片手に提げている。
「……ここは?」
「近所の病院だ。喜べ、個室だぞ」
ケイナインは軽く顎をしゃくる。
「事故扱いで運び込まれてる。記録も経路も、全部な」
レオンは天井に視線を戻した。
「“俺の雇い主“には……」
「今んとこ、嗅ぎつかれてない」
ケイナインは肩をすくめた。
「お前が“誰か“と接触したことも、わざと離脱したこともな」
その言い方は、気負いがない。
だが、その裏でどれだけ神経を使ったかは、レオンにも想像がついた。
「……お前が手配したのか」
「まあね」
短く、それだけ。
ケイナインは椅子に腰を下ろし、脚を組む。その態度は飄々としているが、視線は鋭かった。
「しばらく動くなよ。見た目より派手にやられてる」
レオンは唇を噛んだ。早く身体を動かしたい。
会わなければならない相手がいる。
ケイナインはレオンの焦りを見抜いたように、軽く鼻で笑う。
「そんな顔すんな。生きてた上に面倒も片付けてやった、上等だろ」
ねぎらいの言葉。だが、そこに特別な感情は感じられない。
正確には、割り切りだ。
ケイナインは知っている。レオンが誰を思って、どんな判断をしたのかを。
咎めるつもりはない。だが、好ましいとも思っていない。
それでも口には出さず、ただ状況を最優先する。それが彼のやり方だった。
「しばらくは大人しく寝てろ」
ケイナインは立ち上がり、紙袋をベッド脇に置く。どうやら普通の見舞客を装った差し入れらしい。
「余計な動きさえしなきゃ、ただ事故の負傷者って顔で通る」
扉に向かいながら、ふと思い出したように振り返る。
「安心しろ。目を覚ましたって話は伝えといてやるよ」
誰に、とは言わず、軽く手を挙げた。

 

扉が閉まり、病室は、また静かになった。
レオンは天井を見つめたまま、動かない身体の奥で焦りを噛み殺した。
こんなはずじゃなかった。こんな失態を見せるために行動したわけじゃない。
会うべき相手は、まだ遠い。

 

 

端末の表示音だけが、一定の間隔で空気を切る。
「……レオンはどうなりました」
ピアーズは、あくまで報告確認の口調で尋ねた。
心配しているようには聞こえない。実際、していない。
「ケイナインが処理した」クリスは画面から目を離さずに答える。
「一般病院に搬送。生存は確認済みだ」
生きている。その言葉に、ピアーズの胸は何も動かなかった。
「そうですか」
生きていようが、死んでいようが、作戦上の価値は変わらない。
極論を言えば、あの場で息絶えていても構わなかった。
「……無茶をした」
クリスが、ぽつりと呟いた。ピアーズの視線が、わずかに動く。
その一言は、報告でも分析でもなかった。
「重傷だったそうだ」
クリスは淡々と続ける。声の調子は変わらない。だが、
(心配している。)
それに気づいた瞬間、ピアーズの内側で何かが冷たく固まった。
「作戦外の人間が無茶をした。それだけですよ」
クリスは何も言わない。否定もしない。
それが、さらに気に食わなかった。
「……気にかける必要はありません」
声が、ほんのわずかに硬くなる。
「彼がどうなろうと、俺たちには影響しない」
本心だった。レオンが死んだところで、ピアーズの判断は一切揺らがない。
クリスは端末を閉じ、ようやく顔を上げた。
「そうだな」
だが、その目は一瞬、どこか遠くを見ていた。
――違う。
クリスは冷静を装っているが、あの男を気にかけている。
自分達の目的のためじゃない、もっと個人的な領域で。
それが、どうしようもなく不愉快だった。

 

 

 

夜の病院は、音がない。
消灯後の廊下を、クリスは迷いなく進んだ。普段着に最低限の装備。
病室の扉を静かに開ける。
薄暗い室内で、レオンは起きていた。
天井を見つめたまま、息を整えている。
「……来てくれたのか」
弱々しいが、いつもの調子だ。
「静かにしろ」
クリスは低く言い、扉を閉める。責める調子ではない。むしろ、抑えている。
ベッド脇まで歩み寄ると、レオンがちらりとこちらを見る。
「普通の病院だな。」
「目立つのは避けた」
「ケイナインは有能だな」
「そうだ」
短いやり取り。
しかし作戦現場で会話した時の冷たさはない。二人きりになると、クリスの空気が変わることにレオンは気づいていた。
「……無茶したな」
その言葉にも棘がない。
「結果は出しただろ」
レオンは軽く言うが、額に浮いた冷や汗が消えていない。
クリスはそれを痛々しそうに見た。
「お前が確保したものは、無事だ」
「……そっか」
レオンは小さく息を吐く。安堵と疲労が混じった表情。
沈黙が落ちる。
「次はない」
クリスが言う。
「わかってる」
クリスは視線を落とし、ほんの一瞬だけ考える。
そして、もう一度言葉を選ぶ。
「……ああいうことは、もうするな」
命令ではない。釘を刺す声でもない。
レオンが眉を上げる。
「心配した?」
その一言に、クリスは目を細める。否定しない。
「怖かった」
一際小さい声だったがしっかりと聞き取れた。レオンが黙る。
「お前が、俺のために無茶をするのがだ」
視線はレオンに向けたまま。だが、どこか別のところを見ている。
「ピアーズが、命の恩人だと話したことがあったな…
あいつは、俺を庇って死にかけたことがある」
一拍。
「同じだ」
静かに続ける。「そういう覚悟を向けられるのは、慣れない」
レオンは何も言わない。ただ、ゆっくりと瞬きをする。
「あいつらにも、お前にも誰にも、俺のために死ぬ覚悟をさせるつもりはない」
拒絶ではない。クリスの言葉には労りがあった。クリスは優しい。それ故に引いた線から踏み込ませてくれない。
レオンは天井に視線を戻す。
「……厳しいな」
小さく笑う。それ以上、言い募っても仕方がなかった。
「俺達のために何かしてくれる気があるなら、お前は生き延びろ」
「努力するよ」
そこで話は終わったと、クリスは踵を返した。だが病室を出ようと扉に手をかけた瞬間、
「待って」
レオンの声が、背中に届く。
力はないが、はっきりしている。クリスは振り返らなかったが、動きが止まった。
「……何だ」
「もう少し」
間があって、続く。
「そばにいてほしい」
その言葉に、クリスは一瞬狼狽えた。良くない。応えるべきじゃない。
ここで応じれば、線が曖昧になる。レオンをこれ以上、自分に縛ることになる。
「長居するつもりはない」
それでも、足は動かなかった。
「無理にとは言わない」
レオンは静かに言う。
「ただ……今は、ひとりだときつい」
ベッドに横たわる身体。見えないところにある重傷。
クリスは、視線を床に落とす。レオンの怪我は、結局俺の判断の結果だ。
その事実が、重くのしかかる。
「……少しだけ、だ」
そう言って、クリスはベッド脇に戻った。
椅子には座らない。立ったままだ。
レオンは、それだけで十分だという顔をする。
「ありがとう」
「礼を言われることじゃない」
「でも、言いたかった」

沈黙。

「……クリス」レオンの声が、少しだけ震える。
「俺は、お前が好きだ」
回りくどさはない。逃げ道もない。
クリスは、表情を変えない。だが、視線を逸らす。
「だから、助けになりたい」
レオンは続ける。
「無茶をしたのは、その覚悟がなかったからじゃない」
呼吸を整えながら、言葉を選ぶ。
「生半可な気持ちじゃないってことは、自分が一番わかってる」
クリスは黙ったまま聞いている。否定もしないし、肯定もしない。
「縛りたいわけじゃない」
レオンは、視線をクリスに向けたまま言う。
「ただ……選びたい」
その言葉に、クリスの指がわずかに動く。
「選択の結果は、自分で引き受ける」
クリスは、ゆっくりと息を吐く。
「……重い話だ」
感情を削ぎ落とした声。
「そうだな」
レオンは小さく笑う。「だから、今は答えなくていい」
その一言に、クリスは少しだけ救われる。
「休め」
クリスが短く言う。
「ここにいろよ」
レオンの返事はすぐだった。

 

 

しばらくして寝入ったレオンを眺めながらクリスはベッドサイドの椅子に座っている。
呼吸は浅いが、規則正しい。
「……大丈夫だ」
言葉は、誰に向けたものか自分でもわからない。
レオンの肩が、小さく震える。
クリスは、ためらった末に、シーツの端を軽く押さえた。
触れたのは、それだけだ。
やがて、呼吸が落ち着く。
クリスは時計を見る。針は、確実に進んでいる。
数分のはずだった。
窓の外の色が変わっていく。
クリスは椅子の背に身を預け、目を閉じる。過去の光景が、脈絡なく浮かぶ。
銃声。
爆炎。
自分の前に立ちはだかる背中。
血に染まったピアーズの腕。
「……もう、誰にも」
低く呟き、言葉を止める。
レオンが、小さく身じろぎする。
「……クリス」
寝言だ。クリスは、応えない。
応えられない。
やがて、窓の外が白み始める。
薄い光が、レオンの顔を照らす。端正な顔がはっきりと見える。
クリスは、ゆっくりと息を吐いた。
「……朝だ」
誰にともなく言う。
帰るべき時間は、とっくに過ぎている。それでも、立ち去れなかった。
自分がここにいる理由を、クリスは、まだ言葉にしない。
ただ、夜が明けるまでレオンの呼吸が途切れないことを、見届けていてやりたかった。

 

 

 

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白い壁に、足音だけが反射する。
一定のリズムで歩きながら、ピアーズは呼吸を整えていた。

……最悪だ。

あの人は一晩中、あの部屋にいるつもりだ。
それだけで、十分すぎる答えだった。
クリスは、気づいていないふりをしている。
だが、ああいうときの背中は、何度も見てきた。
守れなかったものを見る目だ。
――あんたは、いつもそうだ。
誰かが無茶をするたびに、それを自分の責任に変えてしまう。

だから、尊敬している。
命令が正しくなくても、
覚悟が重すぎても、
それでも前に立つ人間だから。

だからこそ、愛欲の対象になんて、したくなかった。
ピアーズにとってクリスは、追い越すべき背中で、守るべき指揮官で、
踏み込んではいけない場所だった。
それが正しい。そう信じてきた。

でも

心の奥で、ずっと同じ欲望を、押し殺してきた。
触れたい。
選ばれたい。
あの人の一番近くに立ちたい。

レオンと、同じように。

「……ふざけるな」小さく吐き捨てる。
あの男は、迷いなく言った。
好きだ、と。
助けになりたい、と。
覚悟だの、選択だの、きれいな言葉で包んで。
――ずるい。
それを、ずるいと思ってしまう自分が、いちばん嫌だった。

俺は言えない。
言うつもりもない。
尊敬しているからだ。
崩したくないからだ。
あの人の重荷になりたくないからだ。それなのに。

同じ場所に立とうとするレオンが、
同じ想いを、言葉にできるレオンが、
どうしようもなく目障りだった。

あの時、死んでもいいと思った。
それでクリスが救われるなら、
自分という存在を、クリスに刻みつけられるなら。
「…卑怯なのは、俺も同じか」
誰に向けた言葉でもない。
その選択をしたのは、自分だ。
だから後悔はしない。
俺は、クリスのそばにいる。何があろうと、ずっとだ。
それだけは、絶対に揺るがない。

病室の扉が遠くなる、
ピアーズは歩き続ける。感情を、完全に置き去りにできないまま。
夜明けはまだ見えない。

 

 

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