嵐の夜

気怠い余韻をまとわせたままベッドに伏せるクリスが、身支度をするレオンを眺めている。
眠たげにぼんやりとした潤んだ目に後ろ髪を引かれながらも、装備を整え部屋を出る準備を終えたレオンはベッドに近付き、行ってくる、と一言声をかけ横たわるクリスの額に口づけた。
名残惜しげに短い髪を少し撫でてから腰を上げ、玄関へと向かうレオンの後を、クリスがのっそりとついてきた。ぺたぺたと、その図体に似合わぬかわいらしい裸足の足音に、愛しさが込み上げる。
「どうした?寝てていいぞ」
クリスは余程のことがない限り、レオンの誘いを断らない。深夜に戻って来たレオンに起こされても、怒る事もなく迎え入れてくれる。最初こそクリスに嫌われたくない一心で行動をセーブしていたレオンも、しばらくするとそんなクリスの態度に少々甘えるようになってしまっていた。
「…長くなりそうなのか」と、クリスがレオンに問うた。
今夜もまた、しばらくこの州を離れる事になったレオンが出発直前のわずかばかりの時間を縫って、夜も更けた時間にクリスに会いにやって来て、そしてまだ朝も明けない内に、忙しなく発とうとしている。
「状況次第だが…そうだな、もしかしたらしばらくかかるかもしれない」
本当はさっさと片付けてここに戻ってきたい気持ちであったが、約束はできない。なんでもないふりで「俺がいない間寂しくても泣くなよ」などとからかうように言うと、なにか言いたそうに、しかし黙ったままのクリスの眉間にぎゅっ、と皺が寄る。
それを見て思わず、レオンはクリスを抱き寄せた。彼がこんな風に、離れることに不満げな態度を取るのは初めてだった。頬が弛みそうになるのをこらえきれない。嬉しい。まさかクリスがこんな、去り際にぐずるような真似をするなんて!
こみ上げる感情のままに口づけると、おずおずとクリスもキスを返す。そのままその肉体を再び探りたくなる衝動に耐え、必死の思いで身体を引き剥がした。
「気をつけてな…」自分の行動を恥ずかしがっているのだろうか、クリスが照れてうつむいたまま呟くように言う。
「お前もな、クリス」すぐに戻ってくるさ、と、ベッドで聞かせるくらい甘い声でレオンが囁いた。
浮気するなよ、なんて言おうとして、止める。クリス相手には冗談めかしてでもそんな言葉は使いたくなかった。
「隊長も行きましょうよ!」
チームの中で一番年若い隊員が、仕事上がりの飲みの場になんとかして自分達の隊長を引っ張り込もうと、躍起になっている。
隊員をみな家族だと言って憚らないクリスだから、その下にいる部下達の結束もまた強固なものになっていて、特にアルファチームの仲間意識の高さはBSAAの中でも有名だ。入ったばかりのころはこのMr.BSAAの持つ百戦錬磨の雰囲気に緊張してうまく返事すらできなかったこの新人隊員も、任務を離れた後の穏やかな姿を知る様になるにつれ、いつの間にかすっかり懐いてしまっている。
「いいや俺は…お前らも上司がいないほうが気楽だろう?」
ほら、と少しばかりの餞別を渡して帰ろうとするが、そんなことないですよ!金なんていいですから!と口々に言われ突き返されてしまう。
「ピアーズも行くだろ?」
クリスを囲んでいる輪の後ろのほうで聞こえた名前に、思わず息をのむ。
「隊長が行くなら行く」
きっぱりとそう答えたピアーズに、これだもんなぁ、と誘いをかけた隊員が苦笑いしている。「ほらほら、ピアーズもこう言ってるし、観念してください」
思わずやった目線の先がピアーズのそれとかち合い、クリスは一瞬たじろいだ。そんな隊長の心境を知ってか知らずか、にっこりと動じない笑顔を返してくる。
ここで断って皆が去った後に2人きりになるより、大勢でいたほうが良いかもしれない。そう考え、クリスはまとわりつく新人隊員に根負けしたかのようにわざとらしく大きなため息をつくと、わかったよ、と誘いに応じた。
あれからピアーズとの関係は、一見なにも変わっていないかのように見えた。ピアーズから気持ちを打ち明けられたクリスは、それに何も答えることができなかったが、彼がそれを責めることはなかった。前と変わらず副官のポジションでうまく立ち回っているし、隊長を困らせる様なこともしない…表面上は。
ピアーズはあの告白からというもの、クリスへの好意をほとんど隠さない。
前からそうだといえばそうなのだが、何かが違う。
今こうやって大勢で騒いでいる時も、クリスは常に自分に注がれる視線に見て見ぬふりをしている。ピアーズと2人きりになるのをクリスが意識して避けているのも、もう気付かれているだろう。
「ニヴァンスさん、どうして彼女と別れちゃったんですか?」
怖いもの知らずの新人が、酒の勢いを借りて先輩に絡んでいる。
まあ俺達のこんな稼業じゃあなあとフォローしようとする他の同僚の言葉も意に介さず、ピアーズは「もっと大切な人がいるから」と、悪びれも無く答えた。
マジっすか!いつの間に!?なんて、好奇心を押さえきれない後輩の声に紛れても、じっとこちらを伺う視線は外れない。クリスは、いたたまれない気持ちで手元のグラスを弄ぶ。
「そういえば隊長、この間の…」
黙り込んでいるクリスに気を使ってか、近くに座るマルコが最近あった任務の話をし始めたのが渡りに船だった。
聡い古株の隊員のうち何人かは、薄々なにか気付いているのかもしれない。
自分の発した言葉にわかりやすく動揺を見せたクリスに、さりげなく関係のない話題を振るマルコを横目で見ながら、ピアーズは思った。それでいい。もう俺は自分の気持ちをごまかしはしないと決めたのだから。
クリスは、自分では冷静なふりができていると思っているのだろうが、実際のところとても解りやすい。そうやってすぐ顔に出てしまうところは以前からも親しみやすく、好ましいと思ってはいたが、気持ちを自覚した今のピアーズにとってはそんなクリスが可愛くて仕方がなかった。つい今のように薮蛇をつついてしまう。
先程のピアーズの答えに色めき立つ後輩を適当にあしらいながら、先程より少しほっとした様子で部下と話し込むクリスを眺めた。
ピアーズは、自分が全く脈無しだと言う訳ではないと、確信している。
クリスの性格的に、男同士だから無理だとか、そういうふうには見れないとか、最初からその気がなければはっきり断っただろう。何も言えなかったのは、迷っているからか、少なくとも拒絶ではないはずだ。むしろ、とまどい意識する様子を見ていると、まんざらではないのではと感じてしまう。自分の思い上がりだろうか?
クリスに対するこの感情は、彼女へ持っていたものとはまるで違っていた。例えば彼女が他の誰かを好きになったとして、身を引く事が彼女の幸せになるのならピアーズはだまってそうしていただろう。そういう穏やかで優しいだけの感情で2人は成り立っていた。けれど、クリスが他の人間を…それこそいつかもしも誰かと結婚するなどということになったら。その位置に他の人間が収まる前に、クリスに近づく輩を片っ端から蹴散らしたくなる気持ちが湧いてくる。こと色恋に関してはドライだと思ってた自分のどこに、こんな独占欲めいた激しい感情があったのか、当のピアーズにも解らない。確かなのは、初めてそれを呼び覚ましたのがクリス・レッドフィールドという男であると言う事だけだ。
ささやかな宴もお開きになり、各々が家路につく。
地下鉄も終わっている時間、タクシーを捕まえようと歩き出したクリスに、ピアーズが声をかけた。
「同じ方向ですし、送っていきますよ」俺、あれで来たんで飲んでないんです。と、停めてあるバイクを指さす。
クリスは固まった。が、そう声をかけられるのはまだ想定の範囲内だったので、同じ方向と言っても遠回りになるだろう、大丈夫だよ、と、断りを入れることができた。
けれども、クリスに断られたピアーズの肩がみるみると下がり、落ち込んだ表情を見せられるとは予想もしていなかった。
「そうですよね、あんな事を言われたあとで、俺と…なんて、気持ちわるいですよね」
すみません、困らせてしまって…なんて、いつも明るい部下に似合わぬ心細い声で言われてしまいとっさに「そんなことはない!」と言葉が口をついて出ていた。
そんな、それどころか、自分は前から、彼に恋心を抱いていたというのに…。
それ以上は何も言えなかったが、ぱっと顔を上げたピアーズが「そうだったら、嬉しいです」なんて健気に笑うものだから、それ以上拒否することはクリスには出来なかった。
メットを受け取り、タンデムシートにまたがる。しっかり掴まっててくださいね、と言われておずおずと遠慮がちにピアーズの腰に腕を回す。
心のどこかで、夢見ていた行為のはずだったが、それを嬉しいと感じてしまう自分が汚いもののように思えてならなかった。
クリスの家まであと少しと言うところで、ぽつ、ぽつと雨粒がふたりの肌にあたり始めた。ピアーズはできるだけスピードを上げて路を急ぎ、なんとか本降りになる前にはクリスを玄関まで送り届けることができたが、再びバイクに戻ろうとした頃には、容赦のない雨脚が強く地面を叩いていた。
それでも何も言わずに走りさろうとするピアーズをクリスが引き止め、ぎこちない雰囲気のまま家へと招き入れたのだった。
「すみません、逆に俺がお世話になっちゃって…」
「気にするな。さすがにこんな大雨の中帰すわけにはいかないからな」
一応ゲストルームがあるし、あとシャワーを使いたいなら…と物の場所などを教えようとするクリスをさえぎって、ピアーズがその手をとった。
突然のことに、取り繕うこともできずにクリスの肩が跳ねる。
「…あなたを、愛していると言いました。それがどういう意味か、解っていますか?」
掴まれた手首に、体温の高いピアーズの指先が食い込む。熱を持った掌に、心臓まで鷲掴みにされた気分だ。
「ピアーズ、手を、」離してくれないか、となんとかクリスは訴えたが、離したらあなた、逃げるでしょう、と逆にそのまま引っ張られ、抱き寄せるように腕をとられる。
「いや…あなたが本気で逃げようと思えば、俺の力なんてたかが知れてるでしょう?」
どうして、突き放さないんですか。
ピアーズの、何もかも解っているかのようなまっすぐな視線がクリスを射抜く。
「俺の事、嫌いですか?それとも」
好き?
「好きじゃ…」無い、と、どうしても言えない。2人の距離が、どんどん近くなっている。
「クリス、顔真っ赤だよ」
うつむいたままのクリスを見つめたまま困ったようにピアーズが少し笑う。きっともうピアーズは確信している。自分が、彼のことを、どう思っているのか。
遠くで雷鳴が聞こえる。警告のようだ、とクリスは思った。
「ピアーズ、駄目なんだ。俺は…」
恋人が、いるんだ。と、確かにクリスはそう言った。
思ってもいなかった。だって、そういう話になるたび、クリスは自分には縁が無いと言っていた。それは嘘じゃなかったはずだ。だってクリスの嘘なんて、俺にはすぐ解る。
ピアーズに、自分を諦めさせようとするために言っているのではないのか。
「最近の、ことだから…言うタイミングが、なくて」でも、本当だ。
すまない。と、クリスが謝った。謝ってほしいわけじゃない。だって、それなら、どうして
「あなた、どうして、泣いているんですか…」
ショックを受けたのは自分のほうの筈なのに、ポロポロと、クリスの目から溢れる雫が頬を包むピアーズの指を濡らしていた。
自分が涙を流していることに今気付いたかのように、クリスがピアーズの手を振り払い距離をとろうとする。その勢いで着崩れたクリスの襟元から覗いたそれに、ピアーズは目を見張った。
「!ッピアーズ、やめろ…!」
必死の制止も意に介さず衝動のままにピアーズがクリスのシャツの胸ぐらを強い力で掴む。ボタンがいくつか飛び、床で固い音を立てた。
ひとつ、ふたつではなかった。
見る者を牽制するかのような、執拗に散らされたまだ新しい赤い痣に、これをつけた人間の強い執着が現れていた。いつも太陽の下ではただただ健康的なクリスの肌が、薄暗い部屋の中でかすかに差し込む外灯に白く照らされ、生々しくその痕跡を映し出している。
「もう、わかっただろう…」
うなだれたように黙ってしまったピアーズにクリスが言った。
さあ、これで、終わりだ。
クリスはそう思った。が、ピアーズは掴んだままのシャツをまだ離さない。
ピアーズ、と、宥めるようクリスが声をかけると同時にそのままピアーズが倒れ込んできて、咄嗟に受け止めきれなかったクリスは床に押し倒された。
そして、なにもかもの言い訳を封じ込めるようにピアーズがクリスの唇を噛み付くように奪った。
 
 
雷鳴が響いている。
稲妻が一瞬重なる2人の影を照らし、あとはすべて暗闇と雨音に掻き消されていった。