冷たい手

しばらく大きな事件が起きない日々が続いていた。
BSAA北米支部では隊員達が腕を鈍らせぬ用、常時変わらず厳しい訓練をこなしながらも、このまま何事もなく年が越せるといいのだがと言い合っていた。
映画やドラマでクリスマスには犯罪率が下がるという話をよく耳にするが、実際には年の瀬というのは混乱が起きることの方が多い。キリスト教が盛んな地域ではそんな統計もとれるのかもしれないが、国を越えて活動しているBSAAにはあまり関係がない。
ただ、平和な日々が続くといくら精鋭といえど多少なりとも甘んじてしまうもので、特に出張もなくアメリカにとどまっている北米支部の中では、その時期を家族と過ごしたいと、休暇のタイミングを見計らう者も少なくなかった。
クリスはそれを微笑ましい気持ちで見ている。
勇者たちの平和ボケを嘆く声は少なからずあったが、犠牲の出ない日々は喜ばしいし、特に若い部下達には自分達が守ろうとしている人達との生活を、出来る限り大切にしてほしい。こんな世界にいるからこそ。
訓練終わりのロッカールームは、休暇を過ごす相手の話題で盛り上がっていた。
輪から少し離れてなんとはなしに雑談を聞いていると、隊長は故郷に帰えられたりしないんですか、と声がかかり、自分に集中する視線に苦笑いした。
「いいや、俺は…。こっちでやっておきたいこともあるし」
「そうなんですか?またクレアさんに怒られるんじゃないですか」
「妹はバリーの家に行くって言ってたかな」
「それだ、バリーさん、隊長は何度言っても一緒に来ないって愚痴ってましたよ!」
別の方向から飛んで来た声に一層場がなごんだ。このなんでもないひと時がクリスは好きだ。
ぱらぱらと部屋を後にし帰路につくメンバーを見送り、さてそろそろ自分も行こうと立ち上がると、出口の前にひとり、そわそわとクリスを待つ影がある。
クリスは聞こえない様に小さくため息をついた。
そのまま近づいて行くと、あの、差し出がましいかもしれないのですが、と前置きをして、クリスが1人になるのを待っていたピアーズが問いかけてきた。
「隊長、休暇とらないつもりでしょう?」もし何か起きても自分が動けば良いと思っている。ピアーズにはお見通しだった。
「その、隊長が休まないなら、俺も…」
そう、言い出すと思っていたんだ。真面目で忠実な彼には何度も助けられているが、真面目すぎるのも考えものだ。
「何も全員が一斉に留守にするわけでもないんだし、本当に必要になったらお前がどこで何してようが容赦なく呼ばれるぞ?」だから、休めるときに休んでおけ。
「それに、大事な用があるそうじゃないか」
先ほどロッカールームで耳にした話。帰郷に連れて行く相手の話だ。つまり、家族に紹介する相手ができたということを、散々ひやかされていたのがこのピアーズだった。
「いや、別に、何か特別な意味があるわけじゃないんですよ!その、たまたま、彼女の都合との兼ね合いで、具体的にどうするとかは、まだ」
「はは、何も俺に言い訳する必要なんてないぞ」
「あ、そ…そう、ですか?」
何故か一瞬ぽかんとし、そうですよね…と、確認する様につぶやく様子に、クリスは口元を緩めた。
「軍時代の同僚か、ならこの稼業に理解もあるだろう」
「隊長!」
しっかり聞いてたんじゃないですか!隊長までひやかさないでくださいよ?と珍しくうろたえたように早口で捲し立てる部下を笑って、短く立たせた髪をかき混ぜる。
「行って来い、これが過ぎたらまたいつ顔を見せられるか解らないんだから」
その話はこれでおしまい、と会話を打ち切り歩いて行くクリスの後ろでぶつぶつ言いながらも、それ以上食い下がることなくピアーズも後に続く。
そんなに照れなくても。クスクス笑うクリスに、ばつが悪そうにしながらもピアーズのその表情はまんざらでもないように見える。いいじゃないか、喜ばしいことだ。
そう。本当に
好きな相手には、幸せになって欲しいんだ。
「うん、そう、子供達も相変わらずよ」
電話越しの妹の後ろで、女の子達が楽しそうに笑う声がする。クレアにもこんな頃があったな、となんとなく昔を思い出している。今は受話器から聞こえる声も、すっかり落ち着いた大人の女性だ。
「クリスもこれば良かったのに。バリーが残念がってたわ」
「ああ…また埋め合わせはするって言っといてくれ」
「いいけど…別にバリーは、クリスと一緒に飲みたいだけじゃないと思うわよ」
それはクリスにも解っている。BSAA一辺倒の自分を、家族の団らんに参加させようとしてくれるバリーの気遣いだ。ありがたいと思っている。ただ、今の自分の状態では、一緒にいても上の空になってしまっていただろう。
「ていうか、私への埋め合わせはいつ?最後に会ってから何ヶ月たったと思ってるの!」
「あ、わ、悪い…。その、あの時は差し入れありがとうな。皆喜んでた」
「それは良かった。私もクリスが周りとうまくやれてて安心したわ」
母親のようなことをいう。生意気だが、こういう時、妹がいてくれて良かったと思う。
「しょうがないから、クリスマスに一人で寂しいクリスにプレゼントを用意してあげたわよ」
「プレゼント?」
はて、なんだろう。支部のほうにもさきほど帰って来たばかりの自宅のほうにも、荷物の類いは届いていない。
きっともうすぐ着くわ、と含みを残して妹との電話は終わった。24日の夜だ。もう配達もやっていないだろうに。
手持ち無沙汰に何度も確認してしまう端末をテーブルに置き、小さく息を吐いた。聖なる夜が静かに過ぎていくのを喜ぶべきなのに、せめて何か仕事があればと思ってしまう、そんな自分を恥じた。
クレアは、自分を寂しいと言うが、そんなことはない。ただ、少し、疲れていた…。そんなときに、己を盲目に慕ってくれる存在が現れ、盾となり、剣となり、いつしか支えられるのが当たり前になりーーーそれがなぜ、こんな恋慕めいた感情に繋がってしまったのか。浅ましい気持ちを自嘲するしかなかった。
何も望んでない。ただ、導き見守れればそれで良い。そうだ、クリス。それでいいんだ。これからも何も変わらない。悲観する事などひとつもない。何ひとつ…。
突然来客をつげるドアベルが鳴り、クリスはビクリと肩を振るわせた。
クレアからの荷物だろうか?もう深夜を回ろうとしているこんな時間に?
怪訝に思いつつドアスコープを確認する。と同時に見えた人物に驚いてすぐドアの鍵を外した。
「やあ。メリークリスマス、クリス」
にっこりと、お手本のような微笑をのせた馴染みの顔に、クリスは目を丸くした。
「レオンじゃないか!どうして…」
「クレアに、クリスが退屈してるって聞いてね。丁度俺もこっちにいたから」
独り者同士やるのもいいかと思ってさ、と抱えていたボトルを互いの目の前に掲げて見せた。
「…やられた。プレゼントってこういうことか?」
「プレゼント?」
「クレアが、もうすぐ俺にプレゼントが届くって、さっき電話で…」
「ははっ!そりゃいい。でも、それじゃプレゼントをもらったのは俺のほうかもな」
クリスと過ごす時間をさ、なんて台詞をしれっと放つものだから、思わずクリスは赤面した。この男は10人いれば10人とも整ってると言うであろう容姿と、それに見合うクールな雰囲気をもっているが、逆に言えば対面する者に少し近づき難い印象を与える。実際のところはこうしていつも親しげに接してくれるのだが、初めはそれを意外に感じたものだ。
「でも、いいのか?他に相手がいるんじゃないのか」
「どうして?俺じゃ役不足か?」
そりゃ、台詞が逆だろう、と言いながらも、グラスを準備するクリスの心はさっきと比べて幾分か弾んでいた。レオンの軽口が、こんな夜にはとてもありがたい。
クレアやバリーの話、そこから転じて警察時代の話から、自然と互いの仕事の話へ進んで行く。共通点がそこだから、自然とそういう話題になってしまうが、不思議とレオンとの会話は重苦しくならず気が楽だった。立場の違いがあり互いに客観的になれるからだろうか。レオンは、クリスが率いるチームの話を特に聞きたがった。単独で行動しているエージェントだから、チームワークに興味があるのかもしれない。
「クリスは良い隊長してそうだよな」
「そうかぁ?そうできてたらいいんだが…若いときは協調性がないってよく言われてた」
「へえ、意外と…。でもそうだな、命令無視して前に出るタイプと言われればそんな感じもする」
「…実は未だにそれ、指摘される…」部下に…。と、ピアーズの小言を思い出して、語尾が小さくなる。
しっかりしろよキャプテン、とレオンが笑った。クリスも力なく笑って杯を空ける。いやだな、さっきまで忘れていたのに。自分のそばでキャプテンと呼ぶ声を、今は思い出したくなかった。
一瞬別の方向を向いてしまった意識をあわてて戻すと、いつの間にか笑いを潜めたレオンがじっとこちらを見つめている。ふと、距離の近さが気になった。
「きっと…その部下はクリスを心配してるんだな」
「それは、ああ、解ってる。駄目だな、部下に心配をかけるキャプテンなんて」
「たぶん、捨て身で自分達を守ろうとしそうではらはらするんじゃないかな」
俺は、そう思う。心配だけど、でも、羨ましい。
「クレアに話を聞いていた時も羨ましかったよ。身を呈して守ってくれる兄貴がいて…」
「よせよ。どうしたんだ、急に」
ちゃかすようなトーンでもなく、訴えかけてくる言葉と目に居心地の悪さを感じ、思わずクリスは身をすくめた。
「そうだな…俺が欲しいのは結局、兄貴じゃなかった」
レオンの手が、クリスに触れる。さらりとした金糸が、揺れる音さえ聞こえそうだ
「最初は、頼もしい男だと思った。けどお前は、周りが思ってるよりずっと繊細なんだよ…」
気付いているか?今のお前の雰囲気はとても、危なっかしい。つけこんでくれと、言わんばかりに。
「逃げないんだな」
今にも息がかかりそうな近さで、レオンが言った。いくらこういったことに鈍感なクリスでも、何もわからないフリすらできない。
「正気か?」
「冗談にしたいか?いいよ。お前がそれで、楽になるなら」
いいよ、と、そう言ったのに、青い瞳は少し傷ついたように揺らめいていて、それ以上見ていられなくなったクリスは目を閉じた。
何を、誰を気にしている。あいつは、何も関係ない。俺が何をしようと。
レオンの手は僅かに震えていた。意味のない一方通行な気持ちより、今は静かに、だけど必死に求めてくるこの手に応えてやりたかった。
応えてやるだと?傲慢もいいとこだ。求められることを一番望んでいるのは、自分のほうなんじゃないのか?
後頭部に回されたレオンの指が、髪をなでる感触がする。
緊張して冷えきった、優しい手だった。